名古屋には、覚王山日泰寺という格式の高いお寺があります。毎月21日に縁日があり、多くの露店で賑わいます。先月、11月21日に、買い物に行ってきました。
ところで、この日泰寺に、お釈迦様のご真骨(本物の遺骨)が、納められているという事実を、名古屋近辺以外の人たちは、あまりご存じないと思います。
覚王山は、覚り(さとり)の王者(釈迦牟尼仏)の山(サンガー、僧院)という意味です。
そして、ご真骨が、タイの国王から日本に贈られた由緒から、日泰寺(にったいじ)と、命名されました。
現在、日泰寺の釈尊御真骨奉安堂に、そのご真骨が納められています。
本当に、お釈迦様のご遺骨なのかと、疑う方もおられるかもしれないですが。
事の始まりは、1898年(明治31年)に、遡ります。
お釈迦様が出家される前に、クシャトリアとしての生活をされていた、カピラヴァストゥ(カピラ城、ネパール)の近くに、ピプラーワー遺跡(インド)があります。
その遺跡のストゥーパ(卒塔婆)を、ウイリアム・C・ペッペというイギリス人が発掘したところ、1898年に、地下6メートルの所から、お釈迦様のご真骨と思われる、骨壺が発見されたのです。
この骨壺には、紀元前数世紀の文字で、
これはシャカ族の仏・世尊の遺骨の龕(ずし)であって、名誉ある兄弟ならびに姉妹・妻子どもの[奉祀したもの]である(中村元訳)
と学者によって読解される文が、刻まれています。
この骨壺が、お釈迦様が歴史上に実在していたことを証明する、決定的な物的証拠となったのです。 それまでは、お釈迦様の実在は、疑われていました。
そして、この骨壺に納められた遺骨は、シャム(今のタイ)に渡り、タイ王室はこの「真舎利」を、仏教を信仰する国々に分けることとしました。そして、その一部が、この覚王山日泰寺に納められているのです。
お釈迦様は、クシナガラの地で涅槃に入られる前に、弟子たちに対して、次のように、遺言されたのでした。
「私の遺体は、そなたたちには、関わりのないものだ。荼毘(火葬)にふして、後は、優婆塞、優婆夷(在家信者)に任せなさい。」
そのため、在家の信者の手によって、お釈迦様の遺体は、葬られることになりました。
その時のお骨の一部が、このピプラーワーに納骨されて、大切に葬られていたのでしょう。
1902年(明治35年)10月22日、奇しくも、そのご真骨が、名古屋に迎えらたのでした。
当時、大阪と京都も、ご真骨の奉迎に、名乗りを上げていたそうですが、最終的に名古屋に決まったのでした。
奉迎の当日、名古屋から京都に、数百名の僧侶が出向き、特別列車を仕立てて、ご真骨を名古屋にお迎えしたそうです。
名古屋市内は、家々が仏旗と大菩提の文字を記した軒燈を掲げ、仮奉安所となった、大須の万松寺まで、奉迎行列は長さ数キロに渡りました。
沿道は、数十万人の人々で、うまったといわれます。
そして、1904年11月15日、田代村仮本旗仏堂に、奉遷されました。
覚王山日泰寺が、無宗派各宗総本山として、名古屋市千種区覚王山に、建立されたのでした。