高橋信次先生に、出会ったのは、大学生の時でした。
そのころ、ある女子学生に片思いをしていて、いろいろ悩んでいた時でした。
その思いを振り切るため、自分の生き方を、模索していたところでした。

高橋信次先生のポートレイト

20歳ころまでは、特に宗教心のない、普通の学生でした。
「心の発見」という本を、繁華街の書店で見つけて、貪るように読みました。

そこから、自分のスピリチュアル・ライフが始まりました。

自分が宗教をやっていることを、父親が知って、ひどく叱られました。
「学生のうちから、宗教をするのは、人間の腐ったやつだ。
 宮本武蔵のように、『仏神は尊し、仏神をたのまず』が正しい態度だ。」
と、いわれました。

母親が、とりなしてくれたので、大事にはなりませんでした。

自分は、ただ、本当のこと、世の中の真実が知りたかっただけでした。
本当のことを知るためには、イエスや仏陀のような賢者のことを勉強するのが一番だ、と思ったのでした。
形而上学の世界をさまよっているうちに、高橋信次先生の本に出合うことができました。

高橋信次先生の講演会に行き、そのテープを購入して、家で聞いていただら、突然、心の底から、こみあげてくるものを感じ、涙があふれてきて、言い知れぬ感動に襲われました。
GLAの中京本部に入会した経緯は、「GLAとの出会い」というブログで書きました。
そして、GLA中京本部の研修会に参加しました。

一緒に参加した友人と、研修会場のロビーに行ったら、信次先生がおられました。
そのとき、確か研修会の参加者の男性が、先生に憑いている悪霊を除いてほしいと、頼んでいました。

すると、先生は「悪霊を取り除くのはいいけれど、それでは修行にならないけれどなあ。」というようなことをいいながら、その場でその人の体から、何かを取るしぐさをして、「フゥーッ」と、悪霊?を息で吹き飛ばしました。

そして、お弟子さん(確か、台湾の蔡さん?)と話を始められました。
私と友人は、あっけにとられて、黙って見ていました。
すると、先生が牛乳を飲み干しました。
牛乳瓶が空になったので、そばにいた人が、その瓶を持っていこうとしたら、先生がそれを制止して、「私が持っていきます。」と、ご自分で持っていかれたのでした。

普通ならば、ありがたい説法を、皆が聞いているのだから、「お願いします。」で、いいと思うのですが、そうはさせないところに、先生のご自分へ厳しさを見ました。

これは、東京のGLAの友人に聞いた話です。
先生の誕生日に、GLAの会員が、誕生パーティのサプライズを企画したのです。

パーティの用意をして、「お誕生日おめでとうございます!これから、パーティにしましょう!」といったところ、先生は、「それは、やめてください!そんなことをしたら、メシア信仰になってしまいます!」と、断られました。

そこは話し合いで、先生と同じ月の人も、一緒に誕生日を祝うということで、誕生パーティは、落着しました。

ここでも、先生のストイックさと、周りの人に対する絶妙な配慮・智慧に、敬服しました。

ある教団の教祖は、東京ドームで、信者に誕生日を祝わせているそうですが、全く姿勢が違います。

ある時、名古屋の講演会の後で、GLA中京本部でに立ち寄られました。
当時は、狭い中京本部の部屋に、講演会で下働きをした青年部のメンバーが、所狭しと集まりました。

急に、先生が質問を受けてくださる、ということになりました。

思い切って、手を挙げて、かねてから疑問に思っていたことを、質問しました。
「悟ったという状態は、どういう段階になったら、悟ったといえるのでしょうか?」というような質問だったと思います。

65歳になった今の私からみると、20歳そこそこで、何の社会経験もないわけで、悟る以前に、もっと社会経験を積んで、苦労する必要があると思います。

ひょっとしたら、その時の私は、インドで生まれた記憶を、思い出したことを、意識して質問したのかもしれません。

そのことは、悟りへの道を歩むためのきっかけでしかありません。

確かに、前世があると知ったおかげで、人生で回り道をしなくても済んだかもしれません。

信次先生は、確か、このようにお答えになりました。
「君は、随分、心を小さくしてしまったね。
 それから、神経質だね。
 大学で、非常に難しい数式を学んでいるようだけど、ポーっとピンクのオーラが出ているよ!」
ピンクのオーラとは、ただいま恋愛中のサインです。
悟りにについては、何もおっしゃらず、「もっと大きな人間になれ!」というエールでした。

中京本部事務局長のTさんから、後で、「君は、先生から、器が大きいといわれたのだから、頑張らなくちゃ。」と、励まされました。

しかし、先生に「器が大きい」といわれた、自覚はありませんでした。
それより、恋愛感情を心に持って、授業に出ていたことを、見事に見抜かれたことが、とても恥ずかしく感じられたのでした。

本当に社会経験の乏しい、奥手な若者でした。

GLA中京本部では、多くの友人もでき、青春を謳歌できて、楽しい学生生活を送ることができました。

大学を卒業して、先生がおられる東京を目指して、横浜の会社に入社しました。

「先生の近くに来ることができた。」という喜びもつかの間、就職後、わずか3か月で、先生は天上界に帰られたのでした。

GLAの主宰が代替わりして、その教祖崇拝のような信仰になじめず、GLAを離れることになりました。

信次先生の「正法」を、密かに胸に抱きながら、世間の荒波の中で、一人の社会人としての生活が始まりました。
今では、それがよかったと思います。
宗教というカルトの中で、お互い慰め合って、自己満足に陥ることなく済みました。

宮本武蔵の「仏神は尊し、仏神をたのまず」ではないですが、晃月神諭(981218)には、次の言葉があります。
神のごしゅごがあるひとは
神にたよるは一もなく
唯々神々いのりまいらせ
心言行を神にささげる
これからも、この精神で行かせていただこうと思います。父親も、きっとこのことを言いたかったのですね。