突然の高橋信次先生の昇天の後、青山斎場で、「感謝と誓い」の式典が執り行われました。当日の斎場は、小雨模様の天候の中、大勢の人の行列ができました。
晩年の信次先生
今でも、覚えているのは、その中を黒塗りのリムジンが現われて、アントニオ猪木さんが下りてこられたことでした。

そんな「感謝と誓い」の余韻もさめやらぬころ、この「信は力」が発表されました。

信は力 (GLA誌 1976年8月号より)

人は誰しも目的をもって生きていよう。目的のない人は、まずいないと思われる。人の目的はさまざまであろうが、その要約された目的は仏国土・ユートピアである。もしも、この目的から外れた独善なり、野望なり、あるいは混乱と争いを求める不調和が目的とすれば、目的が達成される前に、あるいは後において、目的に対する反作用が起こり、その目的に対して自覚をうながすことになるだろう。
作用と反作用は、法の定めによるからである。
ともあれ、人は目的をもって生活するが、その目的達成の原動力は何かといえば、ほかでもない、それは信であり念である。つまり信念だ。信念は行為の原動力である。ものの成否のカギを握っていよう。信念がなければ、いかなる目的も、理想も果たし得ないし、人生という大目的から外れてくるだろう。
では何故に、信は力なのだろうか。信とは、エネルギーが集中されたものであり、力はすべて、エネルギーの集中度合いを示すものだからである。
信が強ければ、力が加わる。弱ければ、力も弱い。信の強弱によって、ものごとの成否が決められてゆく。このことは読者も日常経験されるところであろう。つまり、こうなると思うと、そうなっていくだろう。これは何も、肩をいからせ、我武者羅に振舞うことではない。若いうちはそうなり勝ちだが、心の法を知ると、安らいだ心が広がるほど、エネルギーが集中され、物事が成就してゆくものなのである。事実、信念をもって、こうなると力んでみても、心の片隅に不安があると、その力は減殺される。また、不安があると、肩をいからす格好になってこよう。不安を打ち消すために、そうなってくるからだ。であるから、信念の要諦は、目的に向って、そうなると堅く思い、安らいだ心で行為するときに、いかんなく発揮されよう。
信念は、往々にして、妄信や独善に陥る。信念はもともと、個人の心の問題であるからだ。そのため、自己の信念に対して、常に前進への反省が必要になってくる。
私たちの生活は、人と人との関係の中に行われるので、自己の信念が正しいものであるかどうか。その目的意識が人との調和を乱すとすれば、改めねばなるまい。人の心を乱すとすれば、それはやがて、自分にふりかかってくるからである。
こうして、人の信念は、反省を通して、いよいよ強固となり、不動のものとなてくるだろう。このときにおいて、私たちの信念は、偉大なる力を発揮し、人びとを教化していくだろう。
正法に裏打ちされた信念は、何者をも恐れぬ大きな輪となり、力となって、自信と勇気とを与えてくれるだろう。
正法は、信と行との生活である。信のない生活行為は、浮草同様、世のカルマの波に絶えず揺り動かされ、大事な一生を無為のうちにすごしてしまう。正法の理解が深まれば深まるほど、法の真実にふれ、まず、正しい調和の因果律にそった生き方を取るであろう。なぜなら、自分の未来は、現在の信と行との生活にかかっているからだ。
この意味において、読者諸君は反省を通した正しい信念をもって、毎日の生活を送って欲しいものである。
(人道科学研修所長)

以上です。

信次先生は、常々「何でも物事を実現するためには、『念』が必要である。『念』が強い方が実現する。」と、おっしゃっていました。
『信』が強ければ、『念』に、力が加わる。『信』はエネルギーであると、このメッセージではおっしゃっています。

以前、信次先生は、八正道にもう一つ、「正しく信じる」という、九つめの正しさの基準・道を追加しようかと、お悩みになったというお話を聞いたことがあります。

正しく信じるとは、それほどに重要であり、誤りやすいことなのです。
結局、信次先生は、「正しく信じる」という道を、八正道に付け足されませんでした。

このメッセージで、次のように、おっしゃっています。

「心の法を知ると、安らいだ心が広がるほど、エネルギーが集中され、物事が成就してゆく...
 信念をもって、こうなると力んでみても、心の片隅に不安があると、その力は減殺される。」

面白いことに、このブログを書く直前に、「12月22日:ブロッサム・グッドチャイルドを通して~光の銀河連合からのメッセージ~」(ライトワーカーさんのブログより)を見つけました。その中で、「光の銀河連合」さんの次のメッセージに出会い、本質的に同じことを言っていると感じました。

「『完全な自覚』を持っていなければなりません。...‘気持ち半分’では思いを現実化できないからです。」

信次先生は、次のように、私たちに、アドバイスを与えておられます

「信念は、往々にして、妄信や独善に陥る。信念はもともと、個人の心の問題であるからだ。そのため、自己の信念に対して、常に前進への反省が必要になってくる。」
高橋信次先生の言葉を信じるということは、信次先生の言葉を、安易に鵜呑みにすることではありません。
信と行との生活によって、信次先生が説かれた「正法」への理解が深まり、正しい信念が養われます。
自分の未来は、’今ここ’の信と行にかかっています。
妄信、独善ではない、反省を通した正しい信念をもって、毎日の生活を送りましょう。

今日は、大晦日です。
2018年の人の納めの90日も、今日で終わりです。この1年の反省と、新しい2019年に向けての準備は、十分にできましたでしょうか?
私自身、今まで、こんなに心の中が目まぐるしい納めの90日を、経験したことがありません。それほど、いろいろ心に変化がありました。