ブッタ・サンガーの不祥事

蓮の池 スピリチュアル
このお話は、「仏陀と婦女子の出家」の続きです。 多くの若い婦女子が、仏陀に入門するようになり、ブッタ・サンガーの雰囲気が急速に変わっていき、とうとう仏陀が危惧されていた不祥事が起きてしまいます。
蓮の池

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「人間釈迦 4」(高橋信次著 昭和51年11月24日 第1版) P.243~P.248
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 そうした比丘、比丘尼らは托鉢の途次寄り合い、自分たちの時間をつくった。回を重ねるにしたがって、道ならぬ道に堕ち、異性に心を燃やす者も出てきた。
 ブッタは若いサロモンの動向を知っていたが、正面切っていましめることをさけた。いずれ時がくれば目をさまし、情動の空しさを知る時期がくるであろうと考えたからであった。
 ただ、サンガー人にあっては、男女の交わりは修行のさまたげになるとして、さけて通ることを建前としたので、若いサロモンの間で、それがまかり通るようでは問題であった。
 出家の目的は己を知り、調和の心を人びとに伝えることにあるので、この目的から離れた行為は許すことはできなかった。比丘尼の誕生によって、そうしたことは予想されていたが、こう早くサンガーの空気が変ってくるとは意外だった。
 ブッタは、法話のなかで婉曲にいましめた。思い当たるサロモンは、ブッタの法話で慙愧にふるえた。しかし、法を聴いているときは間違っていたと思うが、時間が経つと異性を求めていた。
 当時は、今日の文明社会とはちがい、社会生活は単調で素朴であり、ニュースも娯楽もとぼしかった。娯楽といえば、相撲、蜂蜜とり,弓矢による競技、飲酒、祭ぐらいなものであろう。刺激をもとめるとすれば、異性しかなかったのである。
 サロモン(僧)にとっては外界の刺戟は一切タブーであるが、若い肉体はどうにもならないものであった。
 ある若いサロモンはブッタのいましめが胸につかえ、これがあるから心が開かぬとして、小刀で自分の前を切り落した。ところが、その痛みに耐えかねた彼は、苦しみのあまり地面をのたうちまわった。同僚が駆けつけたときは、彼の顔面は蒼白となり、出血がひどくなていた。
 すぐさま精舎に関係する意思に来てもらい手当をうけたが、出血がひどく、四日目に高熱を出して死んだ。
 こんな事件があって、サンガー(僧団)の空気もかわったが、時が経つとまたそういう刺戟を求めるようになっていった。
 ブッタはいった。
「異性問題で心が揺れるようなことがあれば、在家に戻りなさい。ブッタ・サンガーは、自己を開発することにある。人びとに法を伝えるためにある。異性問題でサンガーの空気を汚し、目的から離れてはならない。
 また、修行はどこにあってもできるのであり、出家に執着を持ち心をせまくしてはならないだろう。サンガー人となり、一度は出家しても在家に戻ることを恥と考えてはならない。人にはそれぞれの場があり、サンガー人だからといって悟れるというものではない。
 ただサンガー人は、心を開く環境のなかで修行するので、在家の人たちよりは恵まれていようが、しかし、多くの人たちの布施によって修行していることを忘れたならば、在家の人たちよりも劣り、心を開くことはできないだろう。
 そなたらは縁生の絆を通して、ここに集った者たちである。この縁生を粗略にし、五官に翻弄されることがあれば、再び苦しみの転生を重ねることになろう。いまをおいて、自己を知る機会はないことを悟らなければならない。
 法は、正しく行ずる者の中にある。姿や形、形式のなかにあるものではない。ふだんの心の動き、そして行為が法に適っているかどうかが問題なのである。そなたらは法の実践者でなければならない。また、それを望み、求めてきた者であろう。それがいつの間にか五官に迷い、六根に翻弄されるとすれば出家の資格者とはいえまい。
 感覚が問題として肉体を裂いたとしても、心を正さなければなんにもならない。肉体は心の乗り舟であり、肉体そのものに六根があるわけではない。肉体を縁にして、心が肉体のまつわる思いにとらわれるので六根が生まれる。つまり、六根の根は、すでに心にある。心が原因である。だから、心を正さなければ肉体にまつわる思いが再び襲ってくる。
 したがって、この手がいけない、この足が悪いというものではない。そなたらの五体は両親を縁として神仏よりあたえられたものである。そしてこの五体はこの地上にふさわしい形で適応されている。つまりは調和されている。調和されているから健康で生きられる。健康でないのは心である。本来、健全なのだが、地上の生活になれてくるにしたがって、自我が芽生え、心がいびつになってくる。いびつはやがて六根となり、そなたらの想念と行為となって現われてくるわけである。
 正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活し、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る八正道の実践こそ、私がいう法である。
 八正道の中心は、神仏の光につながっている各人の心である。仏法は他人のためにあるのではない。すべては各人一人一人のためにある。そうして、その喜びを、慈悲を、他に及ぼしていくものだ。かくして、この地上に仏国土が生まれよう。
 仏国土はまず各人の心の中に築かなければならない。
 現在のそなたらの修行には、心の仏国土を作る。すなわち悟りの境涯に至ることだ。彼岸に至る修行が、今そなたらの生活であり、目標だ。在家の人たちに劣るような行為があってはならないだろう。もし、サンガーの生活に堪えられず、在家に戻りたい者があれば遠慮なく申し出よ。いつでもその希望を叶えるであろうし、自己を誤魔化してはならない」
 胸に覚えのある者は瞑目し、今のブッタの言葉を噛みしめていた。カピラから来た比丘尼たちも、ブッタの厳しいまでの言葉に、こんどこそ襟を正さねばならないと誓い合った。
 ニグロダはカピラではなかった。戦場より厳しい自己陶冶の場であった。それがいつの間にかカピラの生活に戻り、出家の初心を忘れていた。
 比丘尼たちはたがいに顔を見合わせ、しっかりやりましょうと手を握り合った。
 ともあれブッタは情の人であった。修行者のなかで秩序を乱す者があっても、滅多に破門はしなかった。否、一人として破門をブッタから言い渡された者はいなかった。破門者は自ら身を引き、去っていった。
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以上、です。
このお話を読み終えて、2,500年以上も前のこととは、思えませんでした。この現代に、起きてもおかしくないことのように、思いました。
人の心は、時代が変わっても、それほど、変わってはいないようです。
 
仏陀サンガーの中で、道ならぬ恋におちて、その苦悩から脱け出そうとしても、脱け出せず、とうとう若い比丘が、思い余って自分の性器を傷つけて、それが原因で命を落としてしまいます。
あまりの事の重大さに、誰もそのことを、仏陀に告げようとはしません。
仏陀は、ほとぼりが冷めたころを見計らい、
「人の誤った思念から生じる六根に原因があるのであるのだ。たとえ、肉体(五体)からそれを取り除いたとしても、何の問題の解決にはならない」
と、強く諭されます。そして、仏陀は、
「自らのの想念と行為を正すには、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活し、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る、八つの正しい道という、正しい法を実践する以外に、問題を解決する道はない」
と、サロモンたちに法を説かれます。
 
そのことで、若い比丘、比丘尼たちの動揺も収まり、出家の初心を思い出し、気を取り直して、互いの精進を誓い合うことができました。
仏陀は、無理に、若い比丘、比丘尼の感情を抑えつけることは、なされませんでした。 比丘、比丘尼たちが、自ずから気付くように、彼らを導かれました。
仏陀は、心を乱す者に対して、「異性に心が揺れるようなことがあれば、いつでも在家に戻りなさい。」と、還俗(げんぞく、在家に戻ること)を薦められました。 そして、風紀を乱す者は、仏陀に破門を言い渡されるまでもなく、自分から身を引いてゆきました。 それが、暗黙のルールとなっていきました。
仏陀は、誰も責めることなく、慈悲の心で、教団内部の異性問題を解決されたのでした。 見事というほかはありません。

 

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