先日(4/5)、久しぶりに、母校を訪れたら、丁度、入学式でした。シンクロしたようですね。喜びに満ちた人たちが、嬉しそうに記念写真を撮ったり、先輩から部活の勧誘を受けていました。当時が懐かしく、昨日のことのように、思い出されました。
大学の講堂

大学の講堂

私は、大学生の時、高橋信次先生に出逢うことができました。そのことが、人生の方向を決定したといっても、過言ではないです。
それまでの私は、死後の世界、神の存在ということに、全く無関心でした。
大学のキャンパス

大学のキャンパス

大学1年の時、ある同級生に、片思いをしました。今思うと、とても恥ずかしくて、甘酸っぱい思い出です。
その人生の小さな、私にとっては、大きな挫折から、何とか抜け出したいと思い、いろいろ考え、苦しみました。結論は、古今の賢者、聖人の考えを、よく調べて、解決策を見つけようということになりました。
 
そこから、宗教や哲学に興味を持ち、そこに救いを求めるようになりました。
ある時、信次先生のご本を本屋で手に取り、むさぼるように読んだことが、運命の出会いでした。そらから少し後、大学の中の電柱に、先生の講演会のポスターを見つけました。びっくりして、早速、GLAの講演会に参加しました。そして、導かれるようにして、心の世界に入っていきました。今から、40年以上も前のことですが、昨日のことのように、よく覚えています。
 
今回のブログでは、「人間釈迦 1 偉大なる悟り」から、仏陀、お釈迦様の誕生、生い立ちについてのお話を、引用させていただきます。
 
「人間釈迦 1」(高橋信次著 新装改訂版 平成26年6月25日 第9版 第1刷) P.17~P.21
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釈迦の誕生
 紀元前六五四年、当時の中インドの世相は豪族や武将が幅をきかせ、国そのものも乱れていた。ゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏はこうした中で、呱々の声をあげた。当時のインドは、中インドを中心にして、約十六カ国からなる大小の国々が覇を競っていた。
 ゴーダマ・シッタルダーの生れたカピラ城は、コーサラ国にあり、当時の支配者はマーハー・コーサラという人であった。ガンガーの河をはさんで南の方によったところには、ビンビ・サラーという王がいて、マガダ国を治めていた。インドの時代、釈迦をはじめ悟道を得た者が道を説いた言葉は、カッシー語、マガダ語が多かったのである。
 そのような状況下において、これら悟道を得た者たちの出生の条件は、何といっても自分自身が悟れる場所を選んでいることである。ゴーダマ・シッタルダーもやはり同じで、大国の王として生まれては、己自身を知ることも、人間の心を悟ることもできない。コーサラ国の属国であるところのカピラ城は、マーハー・コーサラからみれば、いわば砦のような小国であったのである。ルンビニーの園において呱々の声をあげ、母親は、わずか一週間でこの世を去っていった。母親の名をマヤといった。釈迦族と全く同族であるデヴァダバ・バーストといって、ロッシニーの河をはさんでヒマラヤ山脈に近い同じような砦を持つ国があった。母親マヤはその国王の妹である。
 お産のためにマヤの妹であるマーハー・パジャパティーがカピラにきていた。いよいよ出産という頃になれば、マヤは自分の実家に帰るてはずであった。当時のインドには、お産は実家で行うという習慣があったからである。ところが、さか子のため、十月十日(とつきとうか)を経ずしてゴーダマはルンビニーで生まれた。大変な難産であった。しかし男の子が生まれたというのでカピラは一族をあげて、これを祝った。母親のマヤはゴーダマを産み落すとその喜びも束の間に、わずか一週間で他界してしまった。難産のため、体力を消耗しつくしてしまったからである。ゴーダマはお産のため看病にきていたマーハー・パジャパティーの手で育てられることになった。
 ゴーダマの父シュットダーナーには何人もの妻がいた。当時の豪族、王たる者は何人もの妻をかかえることによって、その威を誇る風習があった。マヤの死はシュット・ダーナーにとって大きな悲しみにはちがいなかったが、自分の後継者ができたことに満足だったようであった。
 ゴーダマはそうした環境の中で成長していった。長ずるにしたがって多くの疑問をいだくようになっていった。まず第一に城内での華やかな生活。外に出ればカースト制度という一つの社会制度による身分のちがい。その身分は生まれたその環境によって生涯その人についてまわるという過酷なものであった。シュドラーという最下級の奴隷は永遠に奴隷であった。宗教の世界でもマーハー・バラモンは大きな勢力をようしていた。そのバラモンでさえ、道を説く者は支配階級の生まれでなければできなかった。下級の者は、いかに人格が高潔な者でもそれは許されなかったのである。
 ゴーダマは、母の顔すら知らない。物心つくようになって、自分を生むとアッと言うまに死んでいった母の姿をもう一度見たい、会いたい、という思いがつのった。その悲しみは長ずるにしたがってまうます自分の心を占めていった。同時に、人間の哀れさ、自然の無常さというものを正視せざるを得なくなっていった。カピラ城という王国の王子として優雅な生活はしていても、いつ隣国が攻めてくるかわからない。部下の中にもスパイが潜んでいるかもしれない。食べ物すら毒味して食べるという不自由さである。外観の立派さにくらべ、精神面は不調和そのものだった。生への執着、生への苦しみ、生への悩みは、ますます心をさわがせていった。
(中略)……
 当時のカピラ城は、多くの兵士たちによって内も外も固められ、城下町も結構栄えていた。しかし、青年ゴーダマの心は、人間はなぜ生まれ、なぜ病気をし、何故年をとるのか、母親マヤの死によって、人間はなぜ死ぬのか、という四つの問題につき当たっていた。
 青年ゴーダマは、心の中に、こうした悩みをいだきながらも、踊り子の舞う姿をながめ、酒にひたり、その場を慰めていた。そうして、目を奪うような外見の華やかさのなかに自分を投げ入れようとさえした。しかし、そうすればするほど、心は空虚となり、四つの大問題は心の中でますますひろがりをみせるのであった。
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お釈迦様が生まれた時代のインドは、今の日本とは比べ物にならないほど、過酷な環境でした。
 
カピラ城は、外見は立派でしたが、いつ敵に攻めてこられるかもしれません。
王子として優雅な生活をしていても、戦争の悲惨な現実や、カースト制度という厳しい身分制度といった社会の矛盾に、疑問を持つようになります。
 
そして、ゴーダマは、生まれたときに、母親を失ったため、成長するに及んで、一目でもいいから母に会いたいという、叶わぬ思いに駆られます。
 
母の死が、なぜ人は死ぬのだろうという疑問につながり、人はなぜ生まれてくるのだろう、なぜ病気になるのか、なぜ年をとって死んでいくのかという、生老病死の四つの問題に、心を悩ませるようになります。
 
後世の私たちは、お釈迦様が出家した後、お悟りになったことを知っているので、無謀とは思わないのですが、その時は、四つの大問題を解決できる見込みなど、全くありませんでした。
青年ゴーダマが、王子の身分を投げ打って、とても解決のめどが立たない、生老病死にまつわる、四つの大問題を解決しようとしたことは、何と無謀な目標だったでしょうか。
しかしながら、その無謀な企てを、ゴーダマは、様々な苦難を乗り越えて、達成していったのでした。
その精神力には、本当に、驚くばかりです。心から、尊敬しています。