先日、レストランで、夕食をとっていたら、スマホが鳴りました。
確認すると、若い女性からでした。
電話に出ると、彼女の口からは、夫に対する不平不満が、堰を切ったようように、溢れ出してきました。
「はあ、はい」と、出来るだけ彼女の言葉を否定しないようにして、時には、こちらの意見を伝えながら、しばらく話を続けました。
話を聞いているうちに、「ああ、『悲しみと困難な世界』に、彼女はどっぷりつかっているなあ」と、強く感じました。
私自身も、そのような渦中にあった時は、当人同士のコミュニケーションが、全く取れないことに、半ば絶望したことがありました。なので、その状況は、よく分かります。
彼女たちが結婚したのは、五年ほど前のことでした。その時のお二人の幸せそのもののような姿が、思い出されました。
「五年前に、結婚の報告を、聞いた時、まさか、今のような状況になるとは思ってなかったね。」と、私が話すと、彼女も、「わたしも、そうです。」と、お答えになります。
「人間が幸せかどうかというのは、幸せと思うか、不幸と思うかだけだ。その時は、二人は幸せだったのじゃない。」と、私は話しました。すると、彼女は「それは、どうだったでしょう。分かりません。」というお返事でした。
「その時の気持ちを、思い出さないないんだ。」と言うと、沈黙がありました。
この離婚話は、急に出た話ではなく、二年以上前に知りました。
二人はその間、ずっと苦しんで来たに違いありません。
「自分がなにを思っているのか、自分で自分がわからない状態だよね。」と、いうと頷きます。
「愛の反対は、恐れであるという言葉を知っている?」と聞くと、彼女は「いえ、無関心です。」と、おっしゃいます。
「確かに、無関心もそうだね。今の二人を見ていると、二人とも、相手に対して、無関心ではない。だから、一度、冷却期間を置いた方がいい。」と、一時的な別居を勧めました。
かれこれ、一時間くらい、彼女と電話をしました。彼女の気持ちも、少し収まったようでした。そこで、電話を切りました。
私は、彼女の話を聞いているうちに、今、すぐに離婚ということがないなと、その時は感じました。
彼女は、すっかり「悲しみと困難な世界」に、ハマっています。「離婚」を考え出すと、なかなかそこから抜け出せません。何とか「穏やかで平和な世界」を、選択して欲しいと、心から願いました。
しかしながら、その後、彼女は離婚を決意したようで、その報告のメールが届きました。そのメールの中に、次の言葉がありました。
「……そもそも、安らぎとはなんでしょう?……」
彼女が、「穏やかで平和な世界」を見いだせないことが、可哀そうに思いました。
翌朝、次のような返信を、差し上げました。