昨日(3/13)の「新・復活」その6 大天使達と主(メシア) に続き、高橋信次先生の「新・復活」その7 聖書の原点 です。
ここは、「よみがえった 聖書の原点」という副題に相当する核心の部分です。
「新・復活」その7 聖書の原点 (よみがえった 聖書の原点)
今から八年前(※ 1968年)に起こった大きな霊的現象を振り出しにして、正法の道は開かれ、此の度の現象は 更に私に正法への自信を深めるとともに、聖書の疑問点が次々と解明される糸口になって行った。 今世に生まれて、まったく宗教に縁のない男が、まったく別の角度から、仏教、キリスト教、ユダヤ教、回教 の本質を説き明かして行くのであるから不思議である。 これも物質的三次元的発想で考えれば不思議という言葉以外にはないからだ。 なぜならば、学ばずして、読まずして知識を得ることが出来ないからであろう。 しかし 心の中の曇りを除くことに依って、三次元的智識のソースを必要としない場合もあるということを知らなくてはならない。
特に聖書や仏典は永い歴史の過程において、智識のみに溺れ自己の行いを正すことなく、智識の遊技に走り、更に意である偽我を加えてしまった 先人の書物の中には原点よりはるかかけ離れた物に変わってしまったと見ても誤りではあるまい。 我々が過去世で学び体験した真実の聖書や仏典には此のように先人のちりやほこりに依って汚されてはいないのである。 この汚れない真実の原点を、自からの思念と行為を正法に依って正すことに依ってよみがえらすことが出来るということだ。
仏教の摩訶般若波羅密多心経という題字があろう。 これはインドの古代語を中国の漢字に当て字しただけなのである。
マハー・パニャ・パラ・ミッタ・チッタ・ストラ-
直訳すると「内在された偉大な智慧に到達する心の教え」ということだ。 私達の心の中には誰も転生輪廻の過程を心の中に記憶しているのが人間の常なのである。
そんな馬鹿化たことがあるものかと若し思ったなら、そのような人々は自分の思念と行為に偽我の生活があるために理解出来ないのだといえよう。 余程、無智な人か独りよがりな剛情な人間だといわざるを得まい。 否定する前に、自己の生活を正して研究して見ることが進歩につながるからだ。
私は此の世における学問的智識を否定するものではない。 その得た智識を生活の中に生かされた時に智慧に変わるということを忘れてはならないだろう。 それは、より人生において己の魂の学習を豊かにするために最も重要であるからだ。
しかし、人間は正しい物の考え方、正しい生活のあり方に対する基準を知っていなかったならば、無駄な苦労をし人生航路での遠路をするということを覚悟しなくてはならないだろう。
永い転生輪廻の中から人生における八十年や百年の体験は線香花火のように一瞬のまぼろしの如き短い時間だと思わなくてはならない。 私達が過ぎ去った過去をふりかえって見た時、その過去が果たして永い時間であっただろうか。 人生は誰もふり返って見れば、本当に短かったということに気がつくのである。
それ故に一日を無駄に過ごしてはならないだろう。 身近な者達の死を目の前で見つめた時、その人だけに死があるのではない。 いつの日か、この現実が自分にふりかかって来るということを知らなくてはならないのである。
生ある者、誰もが此の現実から逃避することが出来ないということを知らなくてはならない。
いかに地位があろうと、いかに財産があろうと、いかに愛する者がおろうとも、死はこの世の形あるすべての物をその人から奪ってしまう。 若し財産や地位・名誉に執着を持ったり、子孫のために執着を持って思い残す心をもったまま此の世を去ったとしたならば、間違いなく地獄界におちるということを知らなくてはならないだろう。 地獄は講談やミステリの世界にだけあるのではなくこの地上界に生存中から続いているのである。
いかに財産家であろうと名家であろうと、生れて来た時にどんな赤ちゃんでも裸で生まれて来たのであって、びた一文のお金も持っては来なかったはずだ。 死ぬ時も同じである。 生きている間に必要なものであり、此れも足ることを忘れ去った時から、欲望は限りなく外に広がり、心の平安が得られなくなり、自から苦悩をつくり出して行くことになるということに気がつかなくてはならないだろう。
(その8へ続く)
以上、です。
高橋信次先生が八年に渡って、お説きになられた「正法」のエッセンスともいうべきところです。
聖書や仏典は永い歴史の過程で、原点よりはるかかけ離れた物に変わってしまった。 しかし、心の中の曇りを除くことに依って、三次元的智識のソースを必要とすることなく、先人のちりやほこりに依って汚されてはいない真実を、よみがえらすことができる。 私達の心の中には、誰も転生輪廻の過程を記憶している。 自分の思念と行為に、偽我の生活があるために、内在された偉大な智慧に、到達できないだけである。
ここで、信次先生が最もおっしゃりたいことは、以下の一文ではないかと思います。
人間は正しい物の考え方、正しい生活のあり方に対する基準を知っていなかったならば、無駄な苦労をし人生航路での遠路をする。
「正しい物の考え方、正しい生活のあり方に対する基準」こそ、信次先生が力説し続けてこられた「正法」なのです。