昨日(11/20)、宇宙人親子チャンネルで、「【動物霊の話】動物霊が選ぶ人とは…。憑かれない自分になる動画。…」というユーチューブ動画を見ました。
動物霊の話 宇宙人親子

動物霊の話 宇宙人親子

動物霊の中でも、特に、狐と蛇の悪質化したものが、人間を迷わせるようです。

「新・復活」原稿_サタン・ルシュエル現す

※ この「新・復活」は、1976年に、高橋信次先生によって、書かれました。

40年以上前、高橋信次先生は、あの世から、人間の口を通おして、神だ、仏だといって、語り出すのは、悪霊の仕業が多いので、気をつけなければならないと、「新・復活」の中で、警告をされました。

「新・復活」その20 1976年4月11日大講堂講演4

「良くわからせていただきました。本当に有難うございました」
と心から礼を言って腰をおろした。
 私達の眼に見えないあの世から人の口を通して出て来る神だ仏だと名乗り出て来る者に限って威圧的な言葉で、盲目な人々に自己主張し信じなければ罰が当たるとか、不幸になるとか脅迫することが多い。
 このような者は神の名をかたる悪霊の仕業が多いために、私達は気をつけなくてはならないだろう。
 真に天上界の光の天使達の言葉には愛がこもり、慈愛深く、盲目な人生を送っている地上の修行者の心に真の調和を与えてくれるものである。
 恰も親が我が子の成長を楽しみながら見つめているように、愛の心は変わるものではない。
 神は肉体を持った人間の心を支配して語り出すことは絶対にないということを、私達は知らなくてはならない。
 人間の口を通して出て来る神を信じてはならない。
 偉大なる光の大天使や天使(如来・菩薩)も肉体を持ちし人間の法にかなった生活をし、しかも同じ器の心の持ち主でない限り、その人間を支配し語ることはないのである。なぜならば、
 肉体を持っている人間の霊囲気(れいいき)の波長が精妙にならない限り上段階の光の大天使とコンタクトすることは不可能だということだ。
 天上の世界にも見えない壁が存在している。
 その壁は一人一人の心の段階、調和度によって、その範囲は異なっている。
 しかし、真実は壁など存在していない。
 けれども人の心の中に、自らしてその壁をつくり出してしまった。
 それ故に天上の世界は、分けへだては総て存在していないということだ。
 人は果てしなく転生を繰返し、何度も此の現象界とあの世を体験している魂であり、死は人生の卒業式であり、魂の転機ともいえよう。
「汝、死をおそれること勿れ」
 ミカエルは私達にこのことを重ねて告げている。
 そして一個の転機にしか過ぎないということを。
 にもかかわらず、肉体舟にとらわれて、死に恐怖感を持って、この現象界の世界を去っていくものが多いということだ。
 ミカエルは
「人間の持つ一番、愚かなる執着なり」
 と言っている。
 私達の五官の死は、真実の死ではない。
 真実の己自身を自覚して、悟るためのものなのである。
 即ち真の 己の誕生を悟るためだといえよう。
 又ミカエルは
「汝等一秒一秒をおろそかに暮すこと勿れ」
と地上界の人々に傳(伝)えている。
 私達の住んでいる地上界の物はうつり変り 持続性がなく無常なものだ。
 私達の自分の肉体ですら、自分の物だと思っていても、一秒一秒、常に死への旅路が近づいており、休止することは絶対にない。
 今体験している一切の苦しみや悲しみ又よろこびは、総て調和された己を完成させるための学習だということを、私達は自覚しなくてはならないだろう。
 私達の肉体を支配している生命の時間は永遠であって物質は総て有限だといえよう。
 人生航路は、はかない一時の夢にしか過ぎない。恰もまぼろしのようなものだ。
 真の影の中でおどらされているピエロの様に、愚かしい現象だということだ。
以上、です。
 
 私達の眼に見えないあの世から人の口を通して出て来る神だ仏だと名乗り出て来る者に限って威圧的な言葉で、盲目な人々に自己主張し信じなければ罰が当たるとか、不幸になるとか脅迫することが多い。
 このような者は神の名をかたる悪霊の仕業が多いために、私達は気をつけなくてはならないだろう。
 
教祖様や、口寄せの口を通して、目に見えない世界から、威圧的な言葉で、盲目な人々に自己主張をして、信じなければ罰が当たるとか、不幸になるとか脅迫するのは、間違いなく悪霊の仕業であると、気づかなければならないでしょう。
 
 真に天上界の光の天使達の言葉には愛がこもり、慈愛深く、盲目な人生を送っている地上の修行者の心に真の調和を与えてくれるものである。
 恰も親が我が子の成長を楽しみながら見つめているように、愛の心は変わるものではない。
本当の天上界の光の天使たちの言葉には、愛に溢れ、慈愛が深く、この世で盲目の人生を送っている人々の心に、真の調和を与えてくれます。
まるで、親が我が子の成長を楽しみながら、見守っているように、天使の愛は親の愛と変わりません。

 神は肉体を持った人間の心を支配して語り出すことは絶対にないということを、私達は知らなくてはならない。

神様や天使たちは、肉体を持っている人間の心を支配して、語り出すことは絶対にないと知らなくてはいけません。

 偉大なる光の大天使や天使(如来・菩薩)も肉体を持ちし人間の法にかなった生活をし、しかも同じ器の心の持ち主でない限り、その人間を支配し語ることはないのである。なぜならば、
 肉体を持っている人間の霊囲気(れいいき)の波長が精妙にならない限り上段階の光の大天使とコンタクトすることは不可能だということだ。
偉大なる光の大天使や天使(如来・菩薩)は、肉体を持っている人間が、神理正法に適った生活をして、そして同じ器(次元)の心の持ち主でない限り、その人間を支配して語ることはありません。
なぜならば、肉体を持っている人間の霊囲気の波動が高くならない限り、上段階の光の大天使とコンタクトすることは不可能です。
 
 人は果てしなく転生を繰返し、何度も此の現象界とあの世を体験している魂であり、死は人生の卒業式であり、魂の転機ともいえよう。
「汝、死をおそれること勿れ」
 ミカエルは私達にこのことを重ねて告げている。
 そして一個の転機にしか過ぎないということを。
人間は、永遠に転生輪廻を繰り返し、何度も、この現象界(三次元)と高次元の世界(あの世)を体験している魂です。
死は、人生の卒業式であり、魂の転機です。
「あなたたちは、死をおそれてはいけない」
と、大天使ミカエルはこのことを重ねて、警告しています。
そして、死は一つの転機にすぎないということを。
 
 にもかかわらず、肉体舟にとらわれて、死に恐怖感を持って、この現象界の世界を去っていくものが多いということだ。
 ミカエルは
「人間の持つ一番、愚かなる執着なり」
 と言っている。

それにもかかわらず、私たちは、肉体舟にとらわれて、肉体を失う死に恐怖を持って、この世の現象界を去っていく人たちが多いのです。
大天使ミカエルは、
「人間が持つ、一番、愚かな執着である」
と言っています。

 私達の五官の死は、真実の死ではない。
 真実の己自身を自覚して、悟るためのものなのである。
 即ち真の 己の誕生を悟るためだといえよう。
私たちは、死んで肉体の五官を失っても、それは本当の死ではありません。
本来の自分自身を自覚して、魂の自分を悟るために死はあるのです。
つまり、本当の自分の誕生を、悟るためなのです。
 
 又ミカエルは
「汝等一秒一秒をおろそかに暮すこと勿れ」
と地上界の人々に傳(伝)えている。
 
また、大天使ミカエルは、
「あなたたちは、一秒一秒をおろそかにして暮らしてはいけない」
と、地上界で肉体修行をしている人々に、伝えています。
 
 私達の住んでいる地上界の物はうつり変り 持続性がなく無常なものだ。
 私達の自分の肉体ですら、自分の物だと思っていても、一秒一秒、常に死への旅路が近づいており、休止することは絶対にない。
私たちが生活している地上界の物質は、いつも変化していて、そのままの姿を持続させることが出来ない無常のものです。
自分の肉体ですら、自分のものと思っていても、一秒一秒、いつも死への旅路が近づいていて、時間を止めることは、絶対にできません。
 
 今体験している一切の苦しみや悲しみ又よろこびは、総て調和された己を完成させるための学習だということを、私達は自覚しなくてはならないだろう。
 
今、この地上界で体験しているすべての苦しみや悲しみ、または、喜びは、全部、調和された自分を完成させるための学習材料であることを、私たちは自覚しなければなりません。
 
 私達の肉体を支配している生命の時間は永遠であって物質は総て有限だといえよう。
 人生航路は、はかない一時の夢にしか過ぎない。恰もまぼろしのようなものだ。
 真の影の中でおどらされているピエロの様に、愚かしい現象だということだ。
 
私たちの肉体を支配している生命の時間は永遠のものであっても、身の周りにある物質は有限です。
私たちが歩む人生航路は、はかない一時の夢にしかすぎません。あたかも、幻のようなものです。
真実ではない影の世界で、有限の物にとらわれることは、踊らされているピエロのように、愚かなことだといえましょう。
私たちの多くは、目に見えないあの世と、そしてこの世との間に、転生輪廻という仕組みがあるということを、知らないか、あるいは、認めようとはしません。
その結果、自分の肉体を本当の自分自身だと思い、肉体に執着して、死を恐れることになるのです。
今、このアセンション(次元上昇)の時代、その固定観念が覆されようとしています。
これからは、全ての人が、魂の自分で、生きていく時代になるでしょう。