「新・復活」その21 1976年4月11日大講堂講演5
私達の五官は、かりに、己を守るための手段にしか過ぎない。 眞の視覚ではない、眞の聴覚ではない、眞の嗅覚でも味覚でも、感覚でもないということだ。 眞のものは、私達の心が主体なのである。
天上の世界における感覚は、魂の段階の低い世界においては五官に影響される場所も存在している。 しかし天上の世界は、心的精妙な光の世界であり、更に調和された段階になるに從って総て感覚以外の心で、総てを感じられる世界になって行く。
地上界における人間である、私達の五官は、天上界の心の感覚を体の機能として現した姿なのである。 そのために、私達の肉体舟の五官は故障をしたり、こわれたり、失ったりするのである。 これも総て、神が我等に与えられた試練であり、三次元的な物質に与えられた力だということだ。
そのために、一つ間違うと、神の慈悲もあだになることもあろう。
総ての肉体は、器官にしかすぎない。 眞の肉体は不変であり、精妙な光子体である。 総て正しい法則に從って生活した時の調和された姿なのである。
私達の肉体は10%の表面意識にあたえられる最も粗悪な光の集中固体化したものだということだ。 そのために、地上界で肉体を持つと、なやみや苦しみ、物に溺れ、情欲に溺れて自ら苦悩の道を歩んでしまうのである。 肉体機能の五官に厳しい 粗悪な光故なり であるとミカエルは私に告げた。
そしてこのようにも言われた。 五官とは肉体とは人間の世界におけるロボットと同じものだ。 只、余りにも精妙に造られた物質である。
しかし、それを支配しているのは、人間の心である。 心を失ってしまえば、この肉体舟も只の物質にしか過ぎない。
死はそのロボットから降り、新しい光の肉に気付く時なのである。 この光の肉体こそ、不変的な己の肉体舟だということである。
更にミカエルは続けて私に言った。
「仏像やキリストの像に後光が出ているであろう。 心の調和度に比例した光なのである。 天上界の住人や、仏像キリスト像の場合のみあるのではなく、地上界の民の心の美しく正しい法に從って生活をしている民の体からも光が出ているのである。 その光は此の世を去る時の乗舟であるということを知ってください。 光の量は、民の生活の心がけに比例しているというとなのである。」
ということである。
以上、です。
まず、信次先生が描かれた次の図を、ご紹介いたします。
※「反省のかなめ」(高橋信次著、非売品、P.45から引用)
上の図を見ていただくと、光子体と肉体が、点線で繋がれています。この光子体と肉体を繋いでいる点線を、霊子線といいます。
本当の肉体は、光子体です。肉体は、この三次元の現象界で生活するための仮の体です。肉体にある五官は、仮のもので、光子体の五官が本物といって良いでしょう。
私達の五官は、かりに、己を守るための手段にしか過ぎない。 眞の視覚ではない、眞の聴覚ではない、眞の嗅覚でも味覚でも、感覚でもないということだ。 眞のものは、私達の心が主体なのである。
光子体にある五官が本物なので、肉体で感じる視覚、聴覚、臭覚、味覚は真のものではないということになります。
天上の世界における感覚は、魂の段階の低い世界においては五官に影響される場所も存在している。 しかし天上の世界は、心的精妙な光の世界であり、更に調和された段階になるに從って総て感覚以外の心で、総てを感じられる世界になって行く。 地上界における人間である、私達の五官は、天上界の心の感覚を体の機能として現した姿なのである。
天上の世界の感覚は、上段界に行けば行くほど、心的精妙な光の世界になっていきます。
そして、地上で生活する私たちの五官は、天上界における心の機能感覚を、モデルとして、作った姿と言えるでしょう。
そのために、一つ間違うと、神の慈悲もあだになることもあろう。
「一つ間違うと、神に慈悲もあだになる」とは、あまりにも、人間の肉体が、よく出来すぎているので、人間が三次元の世界を本物の世界と思い込んでしまうことにより、執着を作り出し、悪いカルマと化してしまうことが、仇となるということです。
総ての肉体は、器官にしかすぎない。 眞の肉体は不変であり、精妙な光子体である。 総て正しい法則に從って生活した時の調和された姿なのである。
肉体のすべては、単なる器官にすぎない。
本当の肉体は、転生輪廻をしても、変わることのない精妙な光子体です。
神理正法に、そって生活をした時に、光子体は調和されて、本来の美しい輝きを取り戻すのです。
私達の肉体は10%の表面意識にあたえられる最も粗悪な光の集中固体化したものだということだ。 そのために、地上界で肉体を持つと、なやみや苦しみ、物に溺れ、情欲に溺れて自ら苦悩の道を歩んでしまうのである。 肉体機能の五官に厳しい 粗悪な光故なり であるとミカエルは私に告げた。
私たちの肉体は、10%の表面意識に与えられた最も波動の粗い光が、集中固体化したものです。
※ 三次元の肉体は、最も波動が低い物質でできているということです。
その結果、地上界に生まれると、悩み苦しみ、物に溺れて、情欲に溺れて、自分で苦悩の道を歩んでしまいます。
肉体機能の五官は、人生修行をするに厳しい、波動の粗い光でできているからであると、大天使ミカエルは告げました。
五官とは肉体とは人間の世界におけるロボットと同じものだ。 只、余りにも精妙に造られた物質である。
五官を持った肉体は、あたかも、人間が創り出したロボットの様なものです。
ただ、ロボットにしては、あまりにも精妙に作られている物質であるといってよいでしょう。
しかし、それを支配しているのは、人間の心である。 心を失ってしまえば、この肉体舟も只の物質にしか過ぎない。
そのロボットである肉体を支配し動かしているのは、人間の心であり意識です。
心を失ってしまえば、肉体は単なる物質にしか過ぎないといえます。
死はそのロボットから降り、新しい光の肉に気付く時なのである。 この光の肉体こそ、不変的な己の肉体舟だということである。
肉体の死は、心・魂が肉体から降りて、新しい光の肉体、即ち、光子体に気付く時です。
この光の肉である、光子体こそ、自分自身の本当の不変的な肉体なのです。
更にミカエルは続けて私に言った。
「仏像やキリストの像に後光が出ているであろう。 心の調和度に比例した光なのである。 天上界の住人や、仏像キリスト像の場合のみあるのではなく、地上界の民の心の美しく正しい法に從って生活をしている民の体からも光が出ているのである。 その光は此の世を去る時の乗舟であるということを知ってください。 光の量は、民の生活の心がけに比例しているというとなのである。」
ということである。
更に、大天使ミカエルは続けて言いました。
「仏像や、キリストの肖像に後光が出ているでしょう。
その後光とは、その方の(神との)心の調和度に比例した光なのです。
天上界に住む天使や、仏像、キリスト像のみにあるのではなく、地上界で修行をしている人たちで、心が美しく、神理正法に沿った生活をされている人々にも、同じように後光(オーラ)が出ているのです。
その後光(オーラ)は、この世を去るときに、あの世での乗り舟、肉体であることを知ってください。
その後光の明るさは、その人の心掛け、正しい法を依りどころにしているか、神の御心にどれだけ添った生活をしているか、に比例しているのです。」
ということなのです。
私たちは、霊視が効かないので、自分自身の光子体である後光(オーラ)を見ることは出来ません。 しかし、見ることが出来ないだけであって、これは厳然とした事実に変わりはありません。 暗中模索の人生の中にあって、正しい法を悟り、神の御心に添った生活をするかが、全ての人々に問われるのです。 それ故に、厳しい人生修行なのです。
【おまけの情報】
最近、宇宙人親子さんのユーチューブ動画を、よく拝見します。
いつも動画の最初で、神様紹介をされるますが、その時、鬼滅の刃のアニメの顔と、よく似た芸能人などの写真を、一緒に出して説明されています。
芸能人の写真は、生身の人間の顔や姿です。
この容姿が、私たちがあの世に戻った時の肉体であり、信次先生のおっしゃる、この「光子体」だと思うのです。
あの世でイケメンや美女にはなるためには、生きている間に、魂の自分に目覚めて、自分を磨くことが重要なことだと思います。
心が調和されて、ほぼ魂さんと合体できるところまでいっていたら、その人は、信次先生がおっしゃっておられるように、後光がさし、綺麗なオーラが出ていて、みゆちゃん星人が見れば、おそらく、美しいあの世の魂さんの姿が見えるのでしょう。
「男を磨け、女を磨け」というアサミさんの言葉は、「人間を磨け、魂を磨け」ってことだと思います。