今日、2月28日は、黒川家之祈りの日です。朝から、しとしととお浄めの雨が降っています。 昨日(2/27)、このブログに、ハッキングがあり、トップページを改ざんされるという事件が起きました。 幸いにも、その日のうちに、完全に復旧することが出来ました。ただただ、お神に感謝です。 今日が2月の最終日であり、3月に入っていくうえで、今一度、反省の意味も込めて、心静かに、淡々と進ませていただこうと気持ちを引き締めました。
本日は、山田征さんのご本「吹く風もまた私である」のあとがきより、征さんご自身のお言葉を引用させていただきます。
「吹く風もまた私である」 P.307 – 310 あとがき より
↓===============================================↓
ご存知のように、この私の本の内容と言いますかノートのテーマと言いますものは、まずは”るしえる” “サタン”といった名でこれまで代表されてまいりました。”影”あるいは”悪”といったものに対する見方の変化または解放といったことがテーマであったと思います。はじめの方ではそのことに対する見方の変化といったことがテーマであったと思います。初めの方ではそのことがひとりの天使の名として扱われ、つまり擬人化されていましたので、よく “るしえるさまをお救いせねば……” といった内容のお手紙をいただくことがありました。その”るしえるの詩(うた)”なるところでつまづく方、一挙に解放されてしまう方、さまざまでした。私のこの本の中に”るしえる”の名、サインがあるばかりに、私のことをすっかり悪魔つきにしてしまった古い友人や読者の方も現実にありましたが、むしろ全体としましては、この詩と共に解き放たれは歓び、といったものを伝えて下さった方のほうが多かったのは幸いでした。しかし、この”るしえる”といった、いまひとつの神の名、力の代名詞である。といったところまでを、きちんと理解しつかんでくださった方は、意外と少なかったのです。そのあたりは、ちょっと気にかかるところでした。
そしてまた”あたらしき星”といったものにひっかかってしまう方も、けっこう多かったのです。この言葉をほんとうに現実にある”星”としてみるのか、あるいは意識的な”何か”としてみるのか、といった質問はけっこうありました。”さあ、どうなのでしょうかねえ……”とたいてい私は答えていました。いまの私には、それ以上の答えは出せないからでした。今度のこの本では、そのあたりの疑問、質問がなをさら多く出てくるかもしれません。
”あるがまま”といった言葉も、皆さんの中ではずいぶん意識されていたように思います。あるがままに認める、ということ、いったい何を、誰を、どのようにして……と。
“あるがまま”を認めることは、とてもやさしそうで、いちばん難かしいことのようにも思えました。でも、結局いま私は、この自分自身のありようを”あるのまま”に認める、という線に落ちついています。そしてそんな自分を認めることが、また他をも認めるということにちがいないと思うのです。しかし、その”認める”ということと、相手に”同調する”といったことはちがっているのではないかと思ってみたり、いろいろです。
そして最後に、つまりは今度のこの六冊めのものの大きなテーマであります。“私はあなた、あなたは私、私以外の何でありたいかのか”といった考え方、言葉のあり方なのです。
私は前から、この世、この世界、この宇宙を全智全能の神さまがお創りになったのなら、その世界に存在する、いわゆるネガティヴなもの、悪、悪人とはいったい何なんだろう?と絶えず考えてきました。でも、それもまた”いまひとつの神”、神なるものの姿と力であるといった、なんともあっさりとした言葉に出逢ったとき、それこそストンと、いえ、なんだやっぱりそうか、それならわかる、とってもよくわかると思えました。そして、この世には神様以外の素材はなにひとつないのだから、ああれもこれも、ほんとに、それこそあなたも私も、私もあなたも、みんな神さま、みんな一緒、みんな同じではないか……と。そして、その本質とはいったい何であるのか……と考えはじめたのでした。
ですから、このこれまでの本全体が、一人の全く平凡な人間であり主婦である”山田 征”という名を持つ私自身の魂が求め、心が求めた遍歴のあとであるということです。私がいつも言う”この本は私の個人的な世界観の本ですから”という意味はそこにあります。
そしてその全く個人的なものを、このようのして本に致しました。さまざまな反撥も受けましたけれど、沢山の共感者、魂の友も得ました。ありがとうございました。ほんとに本にして良かったと、いまは心から思っています。でも、とりあえずはこの本で終りです。もうまだかまだかと待たないでください。またある日突然、ひょっこりと新しい本が出来上がる日があると思います。そしてその頃には世の中、どれほど大きな変化を遂げているでしょうか。それこそ、地球は狭し、”地球をとびたち宇宙の仲間と手をとろう!!” なんてスローガンが生れているかもしれませんね。それはもう時間の問題であると思います。
この地上、これから先ますます、大きな出来ごと、変化があるとは思いますけれど、どうぞ心静かに、お元気にお暮し下さいますよう……。ありがとうございました。
一九九二、七月九日、新座にて 山田 征
↑===============================================↑
以上、です。
このあとがきで、征さんは、「光の影のやさしいお話」から始まる、一連の自動書記のご本について、総括をされておられます。この「吹く風もまた私である」は、6冊目のご本です。
ここでは、生身の人間としての征さんが、正直な胸の内を語っておられるように感じます。
そして、もう十分に、世間に伝えることは、伝えたので、そろそろ「とりあえずはこの本で終りです。」とお考えになったようですが、現実には、そのあとから、「ふたつの世界の間に立って」、「もうひとつの世界へ」という2冊のご本が出されています。
「”あるがまま”を認めることは、とてもやさしそうで、いちばん難かしいことのようにも思えました。」というメッセージは、とても興味深いですね。
征さんのおっしゃる “あるがまま” というのは、今世の自分だけでなく、過去世を含めて、心の奥底のハイヤーセルフ自身も含めた”自分”を、”あるがまま”に認めるということに思えるのです。