先日、「反省」というブログを書かせていただきました。
これからは、「正しい法」、「八正道」という基準で、一日時間を決めて反省することにします、ということにしました。
在りし日の信次先生

在りし日の信次先生

実は、ある方に大天使ミカエルが入り、次の言葉を語ったという話を読み、正直言って、びっくりしました。
「あなたの笑いは、作り笑いです。
 心の底から、笑える人になってください。」
この言葉を発せられた女性は、「あなたたちに、私の心が分かってたまるものか!」と、反発しました。
そして、彼女の背後に潜んでいた悪魔が本性を現し、飛びかからんばかりになりました。
幸い、ミカエルが支配していた女性の隣には、高橋信次先生がおられたので、事なきで済みました。
私が驚いたのは、次のような理由からです。
 
一般的な日本人は、人の欠点を、あからさまに、はっきり指摘することは、まずあり得ないといえます。
たとえ、その相手が、悪魔や悪霊に取り憑かれていたとしてもです。
 
普通では、そういうシチュエーションはあり得ないと思いますが。
この話は、40年以上も前に、信次先生の周辺で、起きた事件でした。
 
日本人は「和を貴し」とするので、こういう物の言い方をする人は、真っ先に非常識とされてるでしょう。
 
一番、衝撃的であったことは、このミカエルの言葉が、正しく語るという八正道の基準に適っているとしたら、少し固定観念を変えないといけないということです。
 
昔、自己開発セミナーに参加していた時のことを、思い出しました。
 
一つのワークとして、セミナーの参加者が、円座に座って、一人の参加者に対して、その他の参加者が、思いつくまま、相手の欠点を指摘し合うのです。
そのワークの狙いとしては、欠点をあからさまに言ったからといっても、関係が悪くなることはないことを示すことでした。
 
それは、かえって、清々したくらいでした。
決して、人の欠点を指摘することは、悪いことではないことを、知るのが目的でした。
 
もちろん、これは自己開発セミナーという特殊な環境下でこそ、成り立つワークであり、現実の社会でこれをやったら、問題が起きるでしょう。
特に、日本人同士では、先輩後輩、上役部下の関係を無視することはできません。
「沈黙は金」というか、ハッキリ言わないことが、美徳とされます。
しかし、時と場合によっては、ハッキリ欠点を言うことが、「正しく語る」という基準に適うこともあるということです。
私が、母が亡くなる2,3年ほど間に、母の介護をしていたことを、思い出しました。
あの時、母と良く意見がぶつかり、よくケンカしたものでした。
お互いに、言いたいことを言い、お互いに譲ろうとしませんでした。
そうはいっても、ひどい喧嘩をしても、その30分後には、何ごともなかったかのように、納まりました。
このような時は、「八正道」的なには、正しく語っていないし、腹を立てるな、という戒めも、完全に破っています。
でも、これはこれで良かったと、今でも思っています。
私は、自分の本心から、親を思う思いから、母は母で、子供の私のことを思う気持ちから、相手の至らぬ点を指摘していました。
親子の間では、これはありだと思います。
しかし、親しい友達にあっては、その人の欠点をズバリと指摘するのではなく、やんわりと、しかしも相手に届くように、表現する配慮が必要です。
周りに波風を立てないように、思っても何も言わないことが、「正しく思う」、「正しく語る」というのも、正しいことだと思います。
一方で、相手の至らぬ点を上手に指摘することも、「正しく語る」ことだと思います。
その時、怒りをもって示すのも、方便としてはありだと思います。
このやり方は、上級者向けの「正しく語る」なのかもしれません。
「正しく語る」ということ一つでも、このように捉えたら、とても奥が深いですね。
八正道という基準は、これが、「正しい」と一概には言えず、人によって違ってくるともいえます。
型にはまった「正しい」という基準ではなく、自分の心にしっくりくる正しさの基準を、求めていこうと思いました。