これは、「反省瞑想」のブログの続きのお話です。
アナン、アニルダ、キンピラの三人の王子たちは、一週間の反省を終えて、ニグロダに向かい、いよいよ、仏陀にお目見えすることになります。

昇る朝日

昇る朝日

人間・釈迦 4 カピラの人びとの目覚め 表紙

人間・釈迦 4 カピラの人びとの目覚め 表紙

「人間釈迦 4 カピラの人びとの目覚め」(高橋信次著 昭和51年11月24日 第1版) P.183~P.188
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 七日目の午後三時すぎ、三人はそれぞれの思いをいだきながら、山を降りた。ニグロダのブッタに会うためである。
 山を降りる途中、アニルダが意思につまずき倒れかかった。アナンは手を差し出し助けようとしたが、二人とも足がもつれ、ずるずると坂道をころげ落ちた。
 気がついたときは、アニルダの衣服は破れ、手足は擦り剝けて血がにじんでいた。二人ともほこりだらけである。
 キンピラはびっくりして駆けおり、
「どうした。大丈夫か。怪我はないか……」
 と、真剣な眼差しで、二人をいたわった。
 三人は顔を見合せ、苦笑した。
「このさき思いやられる。さいさきが悪いぞ」
 と、キンピラがいった。
 
(中略)……
 
 三人が森の中に入って行くと、マーハー・モンガラナーに出会った。
 目は大きく、鋭い感じであった。痩躯の彼については、すでに話に聞いていたので、三人はすぐそれとわかった。
「ブッタが待っておられる。心を鎮めてお会いするように」
 と、彼はいった。
 アニルダは、うれしさに足がふるえて止まらないと、小声でアナンにささやいた。
 三人の目の前に、ブッタが座っておられた。周囲に何人かの人がいる。
 キンピラが、
「俺が先頭に立って行く-」
 と、いうなり彼は小走りにブッタに近づき、頭を深々と地面にすりつけていた。
 アナンとアニルダは、そのあとからキンピラと並んで頭を下げた。
 三人は叩頭したまま、ブッタの言葉を待った。
「頭を上げなさい」
 なにもかものみこんでおられる慈悲に満ちたブッタの声だった。
 三人は、恐る恐る頭を上げた。慈悲の眼が三人の顔にそそがれた。
「よく決心をしてきた。疲れたであろう。今日は、そのままここで休養しなさい」
 三人は、再び叩頭した。
「アナン……」
 と、ブッタは呼んだ。アナンは顔を上げ、ブッタをみた。
「一週間の反省はどうであったか」
「はい、いままで気がつかなかったさまざまな欠点や性格の歪みがわかりました」
 ブッタは軽くうなずき、言葉をかけた。
「正道でいちばん大事なことは、感情に心を動かされないということだ。感情のない人間、それは人間とはいえないが、表面的な好き嫌いの感情にとらわれ、それに翻弄されると心に曇りをつくり、心がすさんでくる。憎悪、怒り、しっと、増上慢……。みな感情がなせるわざだ。こうした時は安心はえられない。公平にものをみることができない。自分を苦しめ、人をも悲しませる。
 心の調和はいかに自己の心を落着かせ、心の安らぎを保つかということだ。それには自己の感情のぶれをなくすことしかない。
 波立ち多き感情の修正は、そのよってきた原因を知り、それにふりまわされぬことが基本だが、しかしそれを知ってもなお振りまわされるのが人の常だ。それを人の業ともいう。そこで人を見ないことが大事だ。意見が合わず、怒りが燃えるということは、相手をみるからだ。相手が怒りに燃えたときは、それにさからわず、熱がさめるまで受け流してしまう。ひと息ついたときに事の道理を話すようにすれば、心の揺れは少なくなろう。
 苦しみの原因は、ものに対する執着である。執着を離れ、冷静になってくると、事の道理がよくみえてくるものだ。神理の実相は、そうした心を保っていると、次第に明らかになってくる」
 ブッタは、ここまでいうと、アナンをみつめた。そして、アニルダ、キンピラの顔をながめた。
 ブッタの言葉は、アナンに向っていたが、若いアニルダ、キンピラにも共通した言葉だった。
 二人も深くうなずき、ブッタの言葉を反芻していた。
「アニルダ--」
 こんどはアニルダに言葉を向けた。彼は、ブッタの言葉にハッとしたような表情をして、ブッタをみつめた。
「そなたは不動の心をつくれ。あれこれ思いわずらうな。なにごとによらず、気を散らすと、ものは成就しない。物事の成就は一心集中にある。一念の心は万事に通ずる。
 そなたは山に登った経験があろう。山の頂きに立つと、視界がひらけ、下界はひと眼で見おろせる。その頂上はどの登山口からも登れよう。登り口はいくつもあるが、頂上は一つなのだ。どの道を選ぼうと、一念の努力は、やがて頂上に達し、頂上に立てば、どの道も同じであり、ものの真実をつかむことができる。一芸に秀でた者が、他を理解することができるのはそのためなのだ。頂上に立てば、なにもかも見渡せる」
「はい、わかりました。不動心をつくるべく道に励みます」
 ブッタはアニルダの言葉をきくと、微笑をうかべ、うなづいた。
「キンピラ--」
 こんどは、キンピラにブッタは顔を向けた。その時キンピラは一週間前に別れた女の顔がスーッと目の前に浮かんできて、ハッと思った。なんとかその顔を消したいと思うが、容易に消え去らない。
 彼は眼を閉じ、ブッタがなにをいわれるかと肩をちぢめ、かしこまって叩頭した。
「そなたは、心を大きく持て。そう心を堅く閉じてはならない。誤ちは誰にもあるもの。その誤ちをどう修正し他山の石とするかが問題だ。人にはたいてい自己を誤魔化して生きようとする。しかし、自己は誤魔化せない。誤魔化せば誤魔化した分だけ苦しまねばならない。
 自己を正し、自己に忠実に生きることが正道である。自己に忠実に生きようとすると、人の心はえてして小さくなるものだ。忠実ということに心がとらわれるからだ。忠実に生きながら心がそれにとらわれないようにするには、中天に輝くあの太陽のように、胸に丸く大きな心を描き、その心を自己の心とすることだ。すると次第に心が大きくなり、些事にこだわらず、しかも些事をないがしろにしなくなってくる。
 正法は中道の道だ。人としての道を外さず、それでいて道におもねることのない道なのだ。万物を生かす道なのだ。
 人間は、肉体を持つと同時に、心を持って生きている。肉体と心は、そのどちらかに片寄っても人は苦しむようにできている。この二つは、もともとひとつのもので、肉体と心の調和こそ中道の在り方なのだ。肉体が苦しめば心も病む。心が動揺すれば食欲も起こらなくなろう。色心は一つであるが、心を悟り、魂の永遠を知った時は、無明の原因は肉の身の五官にあって、心が肉体に片寄りすぎていることに気付くのである。心のこだわりを一つ一つ取りのぞき、中道の真実を悟るようにしなさい」
「はい。そのようにいたします」
 キンピラは、ブッタの慈悲の言葉に、いつしか涙さえうかべていた。
 ブッタの説法に、三人のほかに多くのサロモンが集まり、ブッタの言葉に耳をかたむけていた。アナンもアニルダも、頭を深く垂れ、ブッタの説法を聞いた。
 聞いているうちにアナンは、心の奥深いところから、なにか強く込み上げてくるのを感じていた。こらえようとしても、こらえることのできない強い衝動であった。とうとうこらえ切れず、声を上げて泣き出していた。
 三人の頭から黄金色の後光が見えていた。ブッタはそれをながめると、大きくうなずいた。
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以上、です。
三人が叩頭して、仏陀の説法を聞く姿を想像するだけで、なぜか感動してしまいました。
「三人の頭から黄金色の後光が見えていた。」という言葉があるように、一週間前までは、「人間ドラマ」を抱えていた王子たちが、仏陀の説法を聞いただけで、心が目覚めてしまったことには、びっくりしました。
三人の王子たちは、すべてを捨てる覚悟をしたので、僅か、一週間で目覚めることができたのでしょう。
三人の出家へのひたむきな気持ちが、起こした奇蹟といえるでしょう。
アナンに対しては、感情に振り回されないこと、物に執着しないことを説かれました。
アニルダには、不動心を作り、一心に心を集中して、山の頂に立つような境地を目指しなさいと、説かれました。
キンピラには、心を小さくせず、胸に丸く大きな心を想像しなさい。肉体と心を調和する中道の心を悟りなさいと説かれました。
どれも、重要なことですが、仏陀がキンピラに語られた「丸く大きな心」という言葉が、一番、強く心に残りました。
今から、40年以上前、GLAの青年部研修会で、「丸く大きな心で禅定をしてください」と、信次先生に教えていただいたことを、思い出しました。
ややもすると、この「丸く大きな心」を、忘れがちです。
心を小さくせず、もっと、心を大きく持って、ゆったりとした気持ちで、生活をしたら、随分、楽になることだろうと、気づかせていただきました。