昨日、「
最後の審判」というブログを書かせていただきました。
この「最後の審判」とは、キリスト教でいう終わりの時に、人類全体に対して行われる裁きです。
実は、人間には、もう一つの「最後の審判」があります。
それは、人が死んだ後に待っています。死後の四十九日の間に、霊界での行先を決めるための審判です。一つの人生を終えて、死を迎えた魂の総決算です。
日本では、昔から、死んだら、三途の川を渡り、閻魔様の裁きを受けると言い伝えられてきました。
死者の魂は、あの世に行って、閻魔様の前に行きます。そして、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)という特殊なスクリーンに、自分自身の生前の行為が、すべて映し出されます。
以前、「
罪悪感と恥」というブログで、人間の意識の中にある「想念帯」には、日々の行動が記録されていくということを、書かせていただきました。
その「想念帯」の行動記録が、ビデオを見るように、浄玻璃鏡に投影されます。
他人には分からないと思って、隠していたことも、すべて、白日の下にさらけ出されることになり、死者の多くは、とても恥ずかしくて、いたたまれなくなるようです。
ただし、生前、正しい反省を繰り返してきた魂は、浄玻璃鏡に、自分の行動が映し出されても、何も恥じることはありません。
その理由は、反省を繰り返し行なうことで、想念帯が、いつも掃除されて、罪悪感や恥の意識を、手放すことができているからです。
「罪悪感と恥」の意識を手放す、あるいは、潜在意識のなかにある「想念帯」を、反省によって、掃除をするということは、具体的にはどうすればよいのでしょう。
天理教の教祖様(おやさま)、中山みき様の教えに、「身上事情は道の花」、「節を芽衣にする」という言葉があります。
人生には、避けられない、ネガティブな問題や事件が、起きてきます。
身上とは、例えば、癌や脳梗塞などの大病を指します。
事情とは、倒産とか、離婚などの辛い出来ごと、事件をいいます。
人生で良くない出来事が、どうして、道(人生)の花なのでしょうか。
事件や大病を、自分への警告のメッセージと受け取って、行いや思いを正すことができれば、その問題をポジティブな出来事に、変えることができます。つまり、警告に気付いて、成長することが、人生の「花」となるのです。
ここで重要なことは、その事件を振り返った時、感謝の気持ちで観ることができるようになることです。抵抗感があるうちは、まだ「花」になったとはいえないです。
一つ一つの身上、事情を道の花に変えていった人は、浄玻璃鏡に、どのような事件が映し出されても、動じることはないでしょう。
「節」とは、人生の節目、転換点のことです。自分の過ちに気付いたときは、大きな転換点になります。芽衣にするとは、自分が成長する新たな出発点とすることです。ピンチをチャンスにするということです。
起きた事件、そのものは変えられなかったとしても、自分の見方、物事の捉え方は、変えることができます。見方が変れば、その事件の意味は変ります。
若いころに、内観研修という、集中的な反省の研修を、受けさせていただいたことがあります。
その時、「真実は、一つではない。真実は、心実である。」と、教えていただきました。
一つの事件を、自分の立場からだけでなく、相手の身にになって観る。
その当時の自分、例えば、子供だった時の意識で見るのではなく、大人になった意識で観る。
一見不合理なことであっても、それが起きていなかったら、自分はどのようになっていたか、という観点から観る。
自分という立場ではなく、公平で、客観的な第三者の立場で観る。
等々、様々な観点から、何度も何度も、そのテーマを観ることで、その時は気づかなかった、いろいろな気付きを得ることができます。
すべては、自分のために起きたことであり、結局、それは他ならぬ自分への「神の愛」であることが、分かっていきます。
そのようにして、自分のエゴを手放していきたいですね。