邪馬台国

阿智村 浪合パーク スピリチュアル
昨日(5/6)で、GWの長い十連休が終わり、平常の生活の戻られた方も多いと思います。天皇陛下の退位と即位も、国民の祝福の元、無事にめでたく終わりました。
お陰様で、GW中も、何変わることなく、心静かに平穏に過ごすことができました。唯一、長野の阿智村に行きました。よく晴れ渡り、清々しい一日でした。
 
阿智村 浪合パーク

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さて、今回は、邪馬台国にまつわる様々な謎について、考えてみました。現在の天皇家と、卑弥呼はどのような関わりがあるのでしょうか。
 
一番大きな謎は、邪馬台国はどこにあったかという問題です。江戸時代から、所在地について、様々な論争が繰り広げられてきました。
 
Wikiペディアで、「邪馬台国」を調べると、次のように、表示されました。
邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。
「何故、ヤマト国と発音しないのか?」と思っていましたが、新井白石が「ヤマタイ国」という読み方を広めたからなのですね。本来は、「ヤマト国」で良かったわけです。
 
卑弥呼が女王として、君臨していた邪馬台国が、今の天皇陛下につながる大和王権に、つながっているか?ということも、問題になっているようです。
しかし、王権が変れば、国の名前を変えはずなので、名前が変っていないことは、卑弥呼の頃の政治体制が、正統に引き継がれてきたとみてよいと思います。
 
「古事記」、「日本書記」を編纂した天武・持統帝が、卑弥呼の位置づけを曖昧にしたことによって、真実がわからなくなってしまいました。
卑弥呼を神功皇后と思わせるような書き方がされているようです。
もし、邪馬台国が近畿にあったとしたら、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)が卑弥呼の墓と考えるのが、自然であると考えます。
 
1970年代、高橋信次先生がなされた霊的現象の中で、卑弥呼が出てきたことがありました。
その時、信次先生は、九州に卑弥呼がいたとお話されました。
 
私は、卑弥呼は九州で生まれて、近畿に移動して、生涯を終えたと考えています。
神武東征神話では、神武天皇が九州から、大和(近畿)に攻め上られて、新しい国を、大和に建国されたとされています。
 
古事記では、神武天皇が東征を行われたとしていますが、実際には、崇神天皇が東征をされて、大和を建国されたと、私は考えます。
そして、崇神天皇に血縁が近い卑弥呼も、同じように九州から大和に移ったと思うのです。
その理由をご説明いたします。
『日本書紀』において、神武天皇が「始馭天下之天皇」と呼ばれているのですが、崇神天皇もまた同じく御肇国天皇と呼ばれています。 神武天皇の実在しなかったのではと思います。その代り、崇神天皇が大和朝廷の創建者であったのではないかと思うのです。
私は、卑弥呼は、山の辺の道にある「箸墓古墳」に葬られた「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももぞひめ)命」であると考えます。
崇神天皇が、卑弥呼であるところの「倭迹迹日百襲姫(やまとととひももぞひめ)命」と始めたのが、三輪王朝(三世紀のころ)であると考えるのです。
仮に、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命とすると、崇神天皇の在位期間は、紀元前97年から紀元前30年なので、魏志倭人伝の記載と矛盾が出てきてしまいます。 それは、疑似倭人伝の卑弥呼が朝貢したのは、景初三年は、西暦239年となり、日本書紀の年代とは、合わなくなるからです。
その矛盾を解消するために、神功皇后という架空の女性の天皇を創作したのではないかと思えるのです。 新羅征討のため朝鮮半島に出兵された女性の斉明天皇をモデルとして、神功皇后が創作されたと思うのです。 そして、崇神天皇をモデルとして、神武天皇像が創作されました。
以上が、私が考える邪馬台国の推理です。
では、大和朝廷の始まりを、紀元前660年まで、過去に遡らせた理由は、何だったのでしょうか?
私は、大和朝廷の前に存在した「鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝」の存在を、歴史から消し去ることが、第一の目的であったと思うのです。
「上記(ウエツフミ)」、「竹内文書(たけのうちもんじょ)」などに、ウガヤフキアエズ王朝が、73代続いたと記載されています。 現在、「上記」も、「竹内文書」も、偽書とされているため、ウガヤフキアエズ王朝はなかったことにされてています。 ウガヤフキアエズ王朝は、縄文時代に繁栄し、長い歴史を持つ日本古来の王朝でした。
「日本書記」の編纂者の目論見通り、ウガヤフキアエズ王朝は、現在ではないことになりました。
ウガヤフキアエズ王朝を否定した目的は、磐座を祀る古神道ではなく、伊勢神道を正統的な神道とすることが目的だったと思えるのです。 伊勢神宮の式年遷宮は、天武天皇のご発意により始まり、持統天皇4年(690)に第1回が行われたとあります。
古神道で最高神とされていた天之御中主之命は、その座をなくし、「古事記」で神名だけが残りました。 神武天皇から始まる大和朝廷を権威づけるために、天之御中主神に代わり、天照大神を中心とする神話が創られたのです。 その結果、祈りの場は、磐座の代わって、常に神がいるとされる社(やしろ)と鳥居(とりい)に変っていきました。
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