先日、「邪馬台国」というブログを書かせていただきました。
 
その中で、卑弥呼は九州で生まれたが、崇神天皇と共に、機内に移動したという話をいたしました。
そして、卑弥呼は、日本書紀に登場する「倭迹迹日百襲姫命」であり、その墓が山の辺の道にある「箸墓古墳」であると書かせていただきました。

阿智村 浪合パークにある鳥居と社

そのように、考えるようになったのは、大学生の頃でした。
自分が通っていた大学の学部は、単位さえ取得すれば、大学に来なくてもよい学部でした。
 
そのため、4年生の後期は、週に1回しか大学に行く必要が無かったため、図書館で本ばかり読んでいました。
 
その頃に、邪馬台国の位置を比定する問題があり、九州説と畿内説に、意見が真っ二つに割れていることを知りました。
 
その後、様々な新しい発見があったものも、最終的には、卑弥呼が魏からもらった金印が出土しなければ、決着がつかないようです。
 
私が読んだ雑誌の記事には、魏志倭人伝に出てくる方角を90度、反時計回りに読み替えれば、邪馬台国が機内にあったとしても、距離の長さに大きな矛盾はなくなるというものでした。
 
ただし、方角を絶対視すると、九州説が有利になるということでした。
 
以下が、魏志倭人伝の現代語訳になります。
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倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
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以上、です。
この現代語訳の古代の地名から、現在の地名との大まかな比定を、以下のようにしました。
 
・対馬国=対馬
・一大国=壱岐
・末廬国=東松浦半島
・伊都国=糸島半島
・奴国=志賀島(倭の奴国王之印出土)、福岡市
・不弥国(今川遺跡?)
・投馬国=出雲
・邪馬台国=大和
末廬国から伊都国の方角が、東南に進むとあるが、実際に、東松浦半島から糸島半島の方角は、北東に当たります。
この伊都国(糸島半島)から先の土地の方角については、90度、反時計回りに読み替えればよいと考えたのです。
そうすると、投馬国、邪馬台国は、東に存在することになるので、それぞれ、出雲と大和に比定することができると思ったのです。
不弥国(北九州)から、東へ水行20日で、投馬国(出雲)に至る。
投馬国(出雲)から、東に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
上のように、解読できるので、距離的な不自然はなくなります。
この結果から、卑弥呼が魏に朝貢したころの邪馬台国が、機内にあると思うようになりました。
今、遺跡の発掘などが進み、もし機内に邪馬台国があると考えたら、纏向遺跡が最も有力な候補地になるそうです。
その纏向遺跡には、倭迹迹日百襲姫命の墓といわれる箸墓古墳、そして、崇神天皇陵も存在します。
これで、魏志倭人伝に描かれた「邪馬台国」の所在地の比定問題は、上手く納まるのではないかと思うのです。