20年ほど前のことですが、自分で会社を立ち上げたばかりの頃、ある経営コンサルタントのセミナーに、月一回、通っていました。
このコンサルタントは、もうかなり前にお亡くなりになられました。
その方から、次のようなお話を聞きました。
その方の生まれ故郷に、意味の分からない民謡があり、その民謡の意味を知りたくて、確かニューヨーク大学の言語学の教授に、問い合わせたのだそうです。
その答えは、何と、「古代ヘブライ語である」とのことでした。
そのコンサルタントの方は、とても誠実で真面目な方で、作り話をするような方ではありませんでした。
その話を聞いて以来、「日ユ同祖論」に興味を持つようになりました。
それから、もう一つ、大和(日本)とユダヤの失われた十支族について、関わりを見つけました。
「邪馬台国」のブログで、大和朝廷の始まりを、紀元前660年まで、過去に遡らせた理由は、大和朝廷の前に存在した「鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝」の存在を、歴史から隠したかったことだと書かせていただきました。
紀元前740年頃に、アッシリアが、北イスラエル王国を滅したことにって、首都、サマリアにいたユダヤの十支族は、アッシリアに連られました。この事件を、アッシリア捕囚といいます。そのとき、アッシリアに連れさられたユダヤ民族は、その後、行方が分からなくなり、失われた十支族と呼ばれるようになりました。
そのアッシリア捕囚から、約80年後の紀元前660年に大和が建国されています。
日本書紀の編纂者は、サマリア王国にいた失われた十支族の末裔によって、大和の国が、建国されたことを、暗示したかったのだと気付いたのです。
イスラエルの失われた十支族の民は、アッシリアに滅ぼされてから、東へ東へと進み、やがて日本列島に到達します。
彼らによって、紀元前4世紀ころ、鉄器と馬が日本にもたらされたのだと思います。
【補足説明】
鉄器が現れるのは、九州北部や西日本で前期末(前4世紀)で、東日本では中期後半(前2 世紀)になります。水田稲作の開始後、600 年たたないと、鉄器は出現しないそうです。
参考資料:弥生鉄史観の見直し
渡来した十支族は、九州でまず自分たちの国を建国します。
そのころ、日本(倭国)は、ウガヤフキアエズ王朝の時代で、出雲や、吉備などを中心とした緩やかな連合国家の時代であったと思います。失われた十支族である、ユダヤの民は、ヤマトを九州に建国して、その一員となります。ひょっとしたら、ニニギノミコトの天孫降臨は、海外から九州に渡ったことの反映なのかもしれないですね。
(注、ウガヤフキアエズ王朝は、大和王朝の以前に存在していたとされる王朝。「上記(ウエツフミ)」、「竹内文書(たけのうちもんじょ)」等に登場する古代政権。)
(注、ウガヤフキアエズ王朝は、大和王朝の以前に存在していたとされる王朝。「上記(ウエツフミ)」、「竹内文書(たけのうちもんじょ)」等に登場する古代政権。)
鉄器と馬を倭国に持ちこんだユダヤの民は、やがて、ヤマトの覇権を握ります。
それが、出雲の国譲りによる、大和の建国ではないかと思うのです。
「邪馬台国」のブログで書かせていただいたことですが、神武東征は、実は、崇神天皇による東征であったと思うのです。
その東征が、3世紀の大和朝廷の成立であり、古墳時代の始まりであると思います。