先日(10/13)に、GLA関西本部の秋季研修会が、午前10時から午後4時まで、関西本部のビルにおいて行われ、参加させていただきました。
研修会のご案内には、「私たちは、神との約束を思い起こしその責任を果たし法灯を灯していけるような研修会であればと願っています。」と書かれています。
研修会を主催しておられる関西本部長は、次のような趣旨のことを、おっしゃられました。
「悟りの要件とは、高橋信次先生が起こされた『心行』には、『自己保存、自我我欲の煩悩を捨てる』ことだと書いてあります。 釈迦が法を説かれた当時、現代のように、TVやスマホもなく、暗くなれば寝るしかありませんでした。 そのため、余計な煩悩やカルマを作ることが少なかったといえます。 今は、家に帰れば、つい好きなTV番組を見てしまいます。 これでは、反省や瞑想によって、心を浄化して、自分を悟ることが、お釈迦様の当時に比べると、非常に難しいといえます。 その分、精進しなくてはなりません。」
この秋季研修会は、反省と瞑想を、GLAの会員の各々が、少しでも自分のものにされて、悟りに近づいてもらうことが、目的です。
研修会の中で、ある指導者の方が、反省の材料として、次のようなテーマを出題されました。
ある女性が、町内会の集まりで、別の女性と意見が違ったため、言い争いになりました。 町内会長さんが、見るに見かねて、二人の意見をたてて、二人の中を取りなしてくれました。 しかし、町内会長さんのとりなしにもかかわらず、相手の関係が、気まずくなってしまいました。 これを、皆さんであれば、どのように反省しますか?
私は、次のように、考えました。
まず、言い争いになったとき、どこかで、気づかなければなりませんでした。 とことん、言い争うまで行くまでに、それに気づく必要がありました。 町内会長が、とりなしてくれたとき、相手の正しさを認めて、本当は、仲直りをすることができたら、良かったのですが、そのチャンスも、逃してしまいました。
本来、「正法」を実践している人であれば、自分が怒りの感情を、発した瞬間か、あるいは、怒りで突っ走っている間に、どこかで気がつくはずです。
さらに、どこかのタイミングで、相手の意見を受け入れる、相手を認める余裕がなければなりません。
そのような気持ちになっていれば、気まずい関係になる事はなかったでしょう。
次回、そのような状況に直面した時、自分の怒りの感情に気付いて、感情をコントロールできるようになるために、どうすればよいかというように、反省していくわけです。
これは、言葉に書いてしまうと、例えば、「自分の自我我欲(エゴ)が出てしまったのがいけない」というようなところに、考えが落ち着くかもしれません。
重要なことは、頭で結論を出すことが目的ではなく、二度とそのようなことを、起こさない自分になることなのです。
二度と同じ失敗をしない自分になるという点には、指導者の方も、苦心をされているようでした。
二度と同じ失敗をしない自分になるという点には、指導者の方も、苦心をされているようでした。