昨日(3/15)の「新・復活」その8 物質経済の奴隷 に続き、高橋信次先生の「新・復活」その9 魂の系列 です。日本の宗教では、先祖供養に重きがおかれています。信次先生は、肉体の先祖ではなく、魂の先祖こそ、重要だと説明されておられます。
「新・復活」その9 一つの神理、一人の指導者 (よみがえった 聖書の原点)
人間は最も自分の魂の系列を大事にせねばならない。
肉体の先祖や子孫は此の世限りであり、魂の先祖は、永遠なのである。 自から正道を歩んで、心を浄化した時、偉大な魂の兄弟達や、諸先輩の 見えない世界でどれだけ心配をしどれだけ協力をしているかということを体験することが出来るのである。
肉体先祖からは人生航路の乗舟をいただいたものであり生活の環境を与えられたのである。 肉体先祖の供養は、先ず自分の健康であるということが大事であり、残された子孫がお互いに仲良く明るい家庭を造るということが、最大な供養といえよう。
育てていただいた両親に対しては、その愛に親孝行という報恩の行為が最大な供養なのである。 仏壇の前でお経をあげることが供養だと思っていたらとんでもない間違いだということだ。
朝晩線香や灯明お水をあげることでもない。 残された者達が、健康で、美しい心で、明るい家庭を築くことが、最高の供養といえよう。
私達は旧来の陋習を破り、仏教の原点に帰ることだ。
生きている人間がわからぬお経を、死んだ人間にあげてわかる道理があろうか。 坊さんがプロとしてお経をあげているが、お経の意味がわかっていたら、おそらく仏壇や仏像、曼荼羅の前でお経などあげる愚か者はいないはずだ。 なぜならば、お経の意味を知っていたならば自から生活の中に生かして、人生の道を悟っているからだ。 悟れば、あの世、死後の世界、死者がどこにいるかわかってしまうからである。
あの世などはないと公言している僧侶がいるが、それで死者に引導を渡しているのだから、最早ペテン師である。 偽善者という外はなかろう。 引導は、葬式における儀式の一つではないということである。 盲人、蛇におじずの例えである。 死者の引導を渡す前に自分に引導を渡すべきだ。 一切の執着から離れるための引導を!
葬式から帰ってきた僧侶が、体調が悪いのは、自己の確立が不完全であるから、死霊のいたずらだということを知るべきである。 心して、仏道を極める以外に道はないということを悟らなくてはならないだろう。 偽善の心を捨てることだ。 その時に道は開かれていくのである。
又仏教を排斥するキリスト教信者や指導者も同じことがいえよう。 インマネル・イエスは、今のローマ法王のような金らんどんすは身につけてはいなかったということだ。 あんな立派な教会も存在はしていなかったはず。
天上界の上段階では仏教もキリスト教も回教もユダヤ教も、一つの神理であり、一人の指導者に依って指示されているということを知らなくてはならないだろう。 モーゼ、イエス、ブッタも同じ光の大指導霊であるということだ。
以上、「新・復活(よみがえった 聖書の原点)淨き者達へのおくりもの」 は、ここで、終わりです。
「サタン ルシュエル 姿を現す」と題された原稿が、この「新・復活」に、続きます。
信次先生は、魂の系列、魂の先祖を、大切にしなさいと、訴えておられます。
※ 「魂の先祖」のことは、「人間釈迦 4 カピラの人々の目覚め」の第8章 十二年ぶりの帰城 に、ブッタの言葉として、登場しています。
人間は、最も自分の魂の系列を、大事にせねばならない。魂の先祖は、未来・永遠に続く関係だからである。 偉大な魂の兄弟達や、諸先輩が、見えない世界で、どれだけ心配をし、どれだけ協力をしているかを、この世に生を受けている人間は、知らなければならない。
そして、肉体の先祖に対しては、健康で家族が仲良く暮らすことが、本当の供養であるとおっしゃっておられます。
肉体先祖からは、人生航路の乗舟をいただき、生活環境を与えられた。 肉体先祖への供養は、まず自分の健康が大事であり、残された子孫が、お互いに仲良く明るい家庭を造るということが、最大の供養といえよう。 仏壇の前でお経をあげることが、供養だと思っていたら、それは間違いである。
そして、現代の宗教者に対しては、苦言を呈しておられます。