このお話は、「鹿母精舎の寄進」の続きのお話です。 ベシャキャは、鹿母(かしも)精舎を寄進して、ますます仏陀の正法に、身も心も捧げ、布施の毎日を過ごすようになります。
ベシャキャは、マーハーベシャー(大富豪)の娘で、今であれば、さしずめ、男勝りの辣腕女性経営者といったところでしょう。
仏陀に帰依したからといって、仕事がおろそかになる事はありませんでした。
使用人を厚遇していたこともあり、彼女が現場にいなくても、稼業は立派に回っていました。
仏陀が在世された当時、女性の人権は、今のようには認められていませんでした。女性は業が深い、”女は三界に家無し”という仏教の言葉は、当時の女性の置かれていた立場、つまり、女性が生きていくうえで、男性より困難が多かったことが、反映されています。
仏陀は、人間は、男でも女でも、祭祀階級(バラモン)でも、奴隷階級(シュドラー)でも、平等であるとしておられました。
「仏陀と婦女子の出家」のブログで書かせていただいたのですが、仏陀は女性も男性と平等であるべきとお考えになり、女子の出家を認められて、女性の修行者の比丘尼が誕生しました。
仏陀は、女性の業(カルマ)、在り方について、どのような説法をされたのでしょう。
「人間釈迦 4」(高橋信次著 昭和51年11月24日 第1版) P.35~P.41
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ある時、彼女(ベシャキャ)はブッタに直接指導をうけた。
「ブッタ、私のような女が尊いお方の前に出てご指導をお受けするのは失礼とは思いますが、女の道というものを教えていただければ仕合せです」
「ベシャキャよ、そなたは女でありながら、多くの使用人に慈悲の心で接している。
お互い心が通じ合い、むさぼることなく、愚痴もなく、正しく仕事をしているようだ。
働く使用人の生活を守り、あの太陽のような心で、みな平等に仕事をしているので商売も繁盛しているはずだ。
多くの女性の中には、何事にもすぐ腹を立て、気まぐれでたることを知らない欲深き者であっても、苦しい人びとに対しては施すことを知っている者もある。
また一方で、心が丸く豊かで、怒ることもなく常に心を正し、一切に足ることを知ってはいるが、苦しい人びとに慈悲の心を与えない者もある。
そうかと思ううと、心が豊かで広い心を持ち、心の中に怒りもなく、欲望に足ることを悟り、そうして、他人の幸福を喜び、苦しい人びとには自らの慈悲をもって奉仕している者もある。 この三者の形のうち、正法に適った生き方はどれかといえば、最後の女性がそれに当たるだろう。
法を心の糧として生活している女性は、よく自らの偽我を支配し、一切の執着から離れ、安らぎの心の中に住んでいる女性である。
男女は平等であっても、その働きは剛と柔であり、両者の調和が大事な要件となろう。
女は家庭にあって光明を満たす大事な役割を果たさなくてはなるまい。
男女は肉体的には平等とはいえないが、心は平等である。真実は、男女の性別に関係なく、均等に与えられているからだ。
女性が他家に嫁して行けば、やがて子供が生まれよう。妻は家にあって子供を守り育ててゆく。
良い子を育てるには、夫婦の対話と信頼がいちばんである。たがいに相助け、相譲り、心の豊かな健康な子どもを育てて行かなければならない。
こうした家庭が多くなればなるほど、地上の調和は促進されよう。
嫁にゆけば夫の両親がいて、孝養をつくさなければならないが、この間にあって、いかなる理由がそこにあろうとも、自らの心の中に怒りや愚痴の種を蒔くことなく、忍辱の二字を忘れず、明るく、豊かな生活を忘れないことが大事だ。
心の中の苦悩は、自らがつくり出すということを忘れてはならないだろう。
言葉や行動を通して、自分の都合が悪いからといって、怒りや、ねたみ、恨みの心があると、その種が心の中で発芽し、ぐるぐるとその渦中に自分をおとし入れてしまうことになる。
調和を忘れた家庭は、ついには争いになり、破壊へとつながって行く。
それゆえ、家庭に対立があってはならない。夫の仕事をよく理解し、それを助け、そうして自らも教養を高めるようにするのが女の道といえよう。
家族に対しても、召使いに対しても、慈悲深く、親切な心と行いが大事である。
家の外で得た夫の収入は、自分のために使うのではなく、緊急の場合に備えて貯えることも必要であろう。決して、自分の欲望のために使ってはならない。
夫婦は家庭という、いわば社会の中の協同生活者であって、また、偶然によって一緒になったものではない。転生輪廻の過程における深い縁生の絆によって結ばれたものである。
夫婦は一つの家に住みながら、社会全体に調和をもたらしていくものだ。
それだけに、夫婦は、相和し、心から愛し、愛される関係を持続しなければならない。また、そうした縁生のつながりで結ばれている、といえるのだ。
夫婦の縁生をよりよく前進させるには、法を正しく理解し、行うことだ。それによって、ますます価値の高い調和へと導かれていくものだ。
女は、顔が美しいがゆえに、女は増上慢になり、他人を見くだし、優越感に浸る。
このような女性が男を誘惑しても、正しい法を学んでいる者たちは、その誘惑に乗ることはないだろう。誘惑に心を乱す男性は愚かな男性しかいない。
増上慢や愚かさに支配された男女は心ない情欲のとりことなり、身を修めることなく、不幸な一生を終えることになろう。
心ない女性は、自分をより美しく見せようと躍起になり、虚栄心が心の中を占領し、それを満たすために苦労をする。
こうした女性は男の玩具になり易く、常に悩み、苦しみから抜けることはできない。
ともあれ、女性は、幼少から子供の時代にかけて、両親から保護されるという立場からその自由を妨げられ、成人して他家に嫁げば夫から自由を妨げられ、老いては子どもに自由を奪われる。
女にはこの三つのさわりがあるといえよう。
また、女性は、男性とちがって、誕生してもあまり喜ばれない。まず婚姻で両親に心配をかける一方で、常に心は他人をおそれる。他家に嫁げば出産の苦しみが待ち、夫をおそれて生活をする。このため、自在の境涯はなかなか得られないばかりか、心は常に不安定である」
いわれてみると、女性には女性特有の業というものがあり、それは男性のそれとは大分異なっているものであった。
どんなに男を向こうに回して華々しく仕事をし、使用人を使ったとしても、やはり、女という性のためか、また、無意識のうちにそれが出てしまうためか、なにをするにも、結局は男性の保護の下に生活をしてきていた。
商用で旅をする場合でも、男子なら一人で出掛けることもできるが、女性ではそうはいかなかった。必ず何人かの男が彼女のまわりを護衛し、旅をした。
また、女であるがため、他人の目も、自分自身にも甘えというものがあって、男と同等のきびしさを求めようとしてもできない相談だった。
女は常に保護されて生きている。また、保護されることを無意識のうちに求めている。
また、人を愛するということより、愛されたいとする気持ちの方が強い。
万事が受動的で、それだけに、心は平等でありながらも、女という性ゆえに、男とは違った弱さ、業というものを身につけてしまう、といえる。
ベシャキャはブッタの厳しいまでの真実の言葉をかみしめていた。
そうして、女の性を超えてゆくにはどうすればよいかと思った。
今までの彼女は、男にもできない仕事をしてきた。自負心もあった。
しかし、ブッタの前では、そうした仕事も、自負心も、あと形もなく消え失せて、やはり、そこに座っているのは、間違いなくベシャキャという一個の女性であることに彼女は気づくのであった。
「女の性(さが)を超えるにはどうすればよいのでしょうか」
彼女は、おそるおそる訊ねた。
だが、ブッタはそれに答えようとはしなかった。
微笑をうかべ、ベシャキャの顔をみつめているだけだった。
ベシャキャは大富豪の一人娘として育てられ、それだけに男を見くだす悪い感情がなかなかぬぐい切れなかった。
ブッタの前では頭を低くし、素直にきく心を持っていたが、召使いや多くの男たちの前では、やはり対等に、あるいはそれ以上に自分をおき、命令調の言葉や、とげとげしい言葉が口をついて出がちであった。
彼女はたしかに召使いたちに慈悲の心で接していたが、その慈悲心が時おり優越感と混ざり合い、自己満足に陥っていることに気付かなかったのである。
女の性を超えるにはどうすればよいかという前に、彼女にとっての大事なことは、そうした優越感の感情を整理し自分の置かれた立場から離れて、まず一個の人間に立ちかえることだった。
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以上、です。
仏陀は、ここで、特に、女性の在家信者に対して、修行の在り方を説いておられます。
出家者の修行は、山中の静かな環境で、正しい法を物差しとして、思念と行為を見直し、煩悩に振り回されない自分をつくるということを最大の目的としています。
一方、在家信者は、日常生活のなかで、自分自身の仕事・役割を果たしていきながら、周りの人たちに慈悲の心で接して、世の中に対して、社会貢献をしていくことが、大きな目的です。
ベシャキャは、在家の信者として、その役割を、立派に果たしていました。
彼女は、仏陀から、女には、「三つのさわり」があるが、それを乗り越えて、夫の両親に対して、孝養を尽くして、夫と協力しながら、良い子供を育てることが、女の義務であると教えられます。
さらに、仏陀は、女性は、受動的な態度、甘えといった、男性とは違う業(カルマ)を、身につけてしまうと指摘されます。
ベシャキャは、その女の性(さが)をどうしたら越えられるかを、仏陀に問いますが、仏陀は微笑むばかりで、お答えになりません。
そして、ベシャキャは、多くの召使いたちに命令をする立場上、優越感をもち、自己満足に陥っていたことに、気付かされます。