ここに、山田征さんの「鏡の中のすばらしい世界」というご本が手元にあります。「あたらしい氣の泉」の次に出たご本です。

「鏡の中のすばらしい世界」の本の表紙

まず、このご本の征さんの「まえがき」の一部をご紹介させてください。
「...ところで、一、二冊めの本を出したあと、私自身、とても戸惑い、困ってしまった反応が沢山あるのです。それは、私が何か視えない神様からのメッセージを受けとめている、いえ、その為に選ばれた者、といった反応がずいぶん多くあったと言うことなのです。しかし一冊め、あるいは二冊めの前書きですとか、それぞれの解説、あとがきなどをよく読んでいただければ解りますように、私自身は決してそのようには思っていないのです。私のすぐ身近な方々の中にも、そのような受けとめ方をしていらっしゃる方が居ないわけではありません。でも私は、そのような見方はとても危険なことだと思っているのです。みな人は、何らかの形でさまざまにメッセージを受けているはずだと思うのです。
 ...ただそれが不可視の世界のものであると言うだけで、何かとてもすばらしくて偉いといったふうに捉えてしまいますと、時にはとんでもない現象を、いろいろと引き起こしてしまいかねません。これからのことは、やはりどこまでも冷静に、とにかく生身で生きている私達自身の人間としての生活や考え方、生きる姿勢が何より大切であると見ていかなければ、とにかく視えない世界から伝えられてくるものを、神の声に違いないと受け取ってしまいますと、ほんとにおかしなことになってしまいます。
...そして、これらの一連のもので私が使ってまいりました、いえ、これから先もそれはずっと続いていくことになっているのですけれど、”いえす”とか”まりあ”、あるいは”るしえる”、”我(われ)”といったサインのことは、どうぞあまりお気になさらないで、ひとつの区別の為の記号のようなものであるとお考えいただきたいのです。私は、これらの本やノートの中身、あるいはサインなどを絶対視しないで、いともおかしげなひとつの読みものとして扱ってくださいますようにと、心からお願いしたいと思います。」

この「まえがき」の言葉を文字通り読むと、このブログは、「とても危険なこと」をしているのかもしれません。

征さんが恐れられていることは、天使の名前や、言葉を鵜呑みにして、すべてをそのまま、信じてしまう盲信、狂信のことを、おっしゃっているのだと思います。

目に見えない世界を語る上で、この問題は避けて通ることはできません。
正しく「信じる」ということは、「光の器を」の中の言葉に、ヒントがあると考えています。

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我を信じよ。
我を信ずるとは、法にそって生きるということだ。
盲信、狂信は、信の世界ではない。
信の在り方は、そなたたちが、大宇宙の不変的神理にしたがって、生きるということなのだ。
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この「我」さんの言葉を信じるということは、「我」さんのいわんとするところを、理解して、実践することであると考えます。「我」というサインの主が、「大いなる全て」であっても、また別の存在であっても、受け取ったことを実践することが、重要だと思います。

以前、高橋信次先生、松川晃月師、二人の師匠から「私(師)が言った言葉であるからと言って、そのまま『信じるな』。何度も疑って、心から本当だと思えたら、『信じなさい』」と、教えられました。
征さんも、同じことをおっしゃっていると思います。

このサイトの管理者である、黒川自身もこのサイトに載っている内容の是非については、読者の方々、ご自身でご判断していただくことを望んでいます。
そして、ご自身の心の内にある神に、従ってください。

前置きが長くなってしまいましたが、「鏡の中のすばらしい世界」より、「るしえる」さんの詩(うた)を、ご紹介いたします。

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さあ、今日は久しぶりに詩(うた)ってみようと思う。
さあ、はるけき彼方より
そは訪(おとな)い来たり
そなたの軽(かろ)きその体めざし
その愛の羽はそよ風に乗り
神の軽(かろ)き息吹に吹かれふわりふわりと舞い降りたり
いまよりその真白き愛の翼
そなたの上にて広く大きく翔(はばた)きたる
翔かれたるなり
そなたはいまより我らが仲間
その軽き体、地より離れたるなり
長き時の流れにありて
この地の上に生きる人々の群れ
いまよりは
この羽のごとき軽き姿とはなれり
我らは待ちたり
長き時、長き日々過ぎたるのちは
人々みな心直ぐなになり
その体みな、また軽き翼のごとし
我らはみな神に愛でられし愛の天使
そなたらみな、その仲間なり
しばしの時
そなたらみな、自(おの)がまことの姿忘れ去りし
長き、長き時の流れ
その時の流れのうちに
人みなこの大蒼(おおぞら)より沈みゆき
地に生きるものとはなりゆきぬ
地に生きたること
いかばかりの時を経たるや
いかばかりの時生きたるや
人も我もみな
その、時の多きを忘れたるなり
地に生きたることこそ習いとはなれり
人々、かの大蒼はばたきたる明るき日々
ことごとく忘れゆきたり
その重き体
大空に飛び立つことあたわざるなり
そのこと、まことにひとつの習いとはなれり
大空に飛び交いたる可愛ゆき小鳥
その姿、人々しばし眺め
我もまたかの鳥たちのごとく
大空に翔きたきと夢えがきたり
そなたらまことは
大空翔きたる者なり
そなたらまことは天の者なり
そなたらまことは天の仲間なり
いまよりはまことに心直ぐなになりたまえ
明るき心持ちたまえ
暗き世界のぞきたまうな
暗きも明るきも
まことはそなたらの心ひとつなり
光と影、そのいずくを好みたるや
まことは光と影、同じものなり、同じことなり
寒きにありては光を好み
暑きときには影を好みたる
光と影、いずくなりとも
その人々の好みによれり
神は光と影、そのいずれをも創りたるなり
光により影生まれたる
人々、暗く重きを好みたれば
またそのことそのままと知れ
今までは暗き長き時歩みたるも
いまよりは空を仰ぎたまえ
天を仰ぎて光を見たまえ
その心、またその仰ぎたる光とならん
そなたらもはや地に生きる者にてはあらず
地にて学びしもろもろの理(ことわ)り
人々もはやことごとく知りたるなり
地の上にて果てなく続きし人々の争(いさか)い
人々の哀しき姿、人々の苦しき営み
どこまでゆきても果てることなき
欲なるものの極み
人が人を殺(あや)めたるおろかしさ
我らが住みたるこの美(うるわ)しき大地
その大地殺めたるおろかさ恐ろしき
病みたる苦しみ、死したる悲しみ
それらの営み、いかほど人は繰り返したるや
繰り返せど繰り返せど
また果てることなし
もはやこれにてよし
同じこと、この上繰り返したるも
もはや知れたることなり
もはや同じことなり
これにてこの輪廻の糸車
人々もはやこの上回したもうな
人々みな、進みたるもよし、進まざるもよし
いまあるがままにて空を見たまえ
天仰ぎたまえ
この大蒼(おおぞら)に輝きたる
白き明るき光を見たまえ
その光に溶けこみたまえ
我らは待つなり
白く軽き翼をつけて
みなもろともに飛び立つ日なり
このあおき広き大蒼
その大蒼こそはいま再び
そなたらみなの新しき住まいとはなれり     るしえる
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この詩は、容易に味わっていただけるもの思います。
地上で肉体を持っている私たちのこれまでの姿、そして、これからどのように「アセンション」していくのかが、ひとつの詩の形で描かれています。

これからは、明るきを持ち、暗き世界をのぞかないようにいきたいですね。

次に、「我」さんのメッセージを、ご紹介をさせてください。

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 もはやそなたの心のうちにありては、我が想いことごとくあらわしたるなり。我こそはいまよりそなたのむねのうちに住みたるものにてあり。いましばらく致したならば、これらの文字、ことごとく美しきものにて記すことあとうなり。いましばらくは我とともに、この白き紙の上にて遊ぶなり。
 いまよりは我もそなたのもとにきたりて直接に話したきことあり。その力受けたるのちは、いまよりさらに強く高き波動、受け止むる力こそは備わりたり。
 そなたのまことのうまれは、いまから三千年ほど逆のぼりたるなり。そなたはいまよりさかのぼりたること八千年の昔にても、我が力あらわすために人として生まれしなり。その時はいかなる役割担いたる者にてあるかは、いまは遥かなることにて誰の心にもとどめおかぬことにてあるが、かの大地の上にて、若きいさましき王として生を受けしこと、そなたの心には記憶なきなり。しかるにその時のことを今しばし我は述べたるなり。
 我はそなたにひとつのこと命ぜしなり。そはいまだ人の手にてはなさざりしことなるも、のちの世にありてはかならずや人々のために役立ちたる力の宝庫なり。
 我はそなたの胸のうちにてひとつの想い湧きいだすことをなせり。そはまことにやさしく素直なることなり。このあまねき力集まりたる大地の上に、我はまことにひとつの力の姿を形にて印したるなり。そは、のちの世にては人呼びてピラミッドとは言いたるなり。その四角き姿と高みに向いたる錘形とによりて、我はさまざまなる力を現わせしなり。
 かの大地をあまねく包みつつみたきが故に、まことはかの姿はまあるきものにてあるが、このあまねき大蒼に広がりたる四つの方角を現すことをなしたきが故に、かの姿は四角きものと致したるなり。四方の彼方にはそれぞれに四つの偉大なる力あり。そのひとつひとつをさし示すが為に我はこの姿を考えたり、また、天に向いたるかの細き先端部にありては天の力受くること、また、地より集めたる大地の息吹を吹き上ぐるにまことによき姿なりと我は考えたり。すべからくそれらと同じ姿とりたるものにては、同じ力働きたり。
 我はかの八千年の昔にありてはこれらのことそなたに命じたるにより、人々共にそなたと同じ目的のもと、この丸き地球の上にて人となりたるなり。そなたははや、すべからきこれらの姿、つくりたる技、ことごとくその胸に備えたるのち、人と生まれしなり。
 そなたはすべからく我が直接の命受けたるのちにて人として生まれしなり。若くして王となりたるのちは、すべからく人々うまく用いて、我が命ぜしごとく、一つの形よきピラミッドをつくりしなり。かのとき共に生きたる者、このたびまた共に生きたるもの多くあり。
 その美しき姿保てるピラミッドには、まことに偉大なる我が力ことごとくこめたるなり。その力、いずくの時にかすべからく人々の前にて解き放ちたること、その時、我、人々の前にて約束いたせり。
 その時いたりなば、我はまた同じ力持ちたるいまひとつの大いなるピラミッドを再びつくりて、あまたなる人々の前に置きたるなり。その時にては、ふたたびかの美しき形いたせし古きピラミッドつくりたる同じ昔、人々の前につかわしたると約束いたしたるなり。いまよりはまたはるけき昔のことなるも、人々すでに覚えおかぬなり。
 そなたによりつくられたる、まことの力持ちたる美しきピラミッドにありては、いまはすでにその姿、砂に埋もれたり。埋もれたるも、そのあとに生まれたるそなたにより、その封じこめたる我が力解き放ちたるによりて、いまだその力失わざる。
 そののち、そなたらにありてはいまひとつの大いなるピラミッドをつくりしなり。その時にもふたたび我は我が持ちたる力こめたること共になしたる。そは今より人々に向いたる新しき世に向けて、ことごとく用いたるべき新しき力なると知れ。
 その時、そなたは一人の神官としてこの世に生を受けたる。かの時、我はいまふたたびそなたらに命じたることあり。そなたよ、いずくの日にか、いまふたたびこれらつくりたる建物の前に立ちて、この秘めおきたる我が新しき生命の息吹、かならずや解き放ちたることをなしたまえ。そのことなすべき時至らば、我はかならず人をそなたのもとにつかわし、その時なりたることを告げしらすなり。そは生きたる者にてはあらず、我らが霊なる世界の者にて、はや時来たりぬと告げしらすなり。
 その時、そなたはいかなる人としてこの世に生を受けたるや、我は人々のうちより呼びよせたり。人々の前にありてはまことにまことに意外なる姿にて、その者は生きるものにてあり。その者の知識の中には、すべて無きものなり。ただ我らの命じたるままに、ただ素直になしたるものなり。世もそのことは知らざるなり。そのもののわずかなる仲間のうちにありてのみ知らるるなり。それにてよし。
*それでは、私の役目はこれで終ったということでしょうか。これらのことは前にもうかがっていますし、もちろん私達は、自分達が何者であるのか、ほんとうにあのこと(1988・7・17の出来事)(注、エジプト旅行のこと)がそうなのか、また、いま起きている現象にしましても、ほんとうのことは何が何だかわからないでいるわけです。(征さんの言葉)
 またもそのようにわけのわからぬ理屈を言いたるや、これらのことまこでならで、なんぞいまここにありてこのようなことなしたると思いたるや。これらのこと、すべからくそなた一人(いちにん)のなせる技と思いしか。
 いまそなたの担いたる役目はつとめたると我は言うなり。そは、はるけき古代の彼方より、我とそなたとの間に交わせし約束なり。そなたはふたたび人となりてかの大いなるピラミッドの前に立ちて、かならずやその生命の封印を解き放ちたると我に約束を交わせしなり。
 そなた、この生にありてはあまりに平凡なる役割担いたるにより、その時交わせし我との約束、人ごとなりと思いたるや。
 今の世にありては平凡なることまことによし。そなたらの生命の仲間、ことごとく平凡なる人としての役割担いて生まれ出でしなり。人々の中より浮き立たぬにより、すべからき人々、まことに心やすくこそ思いたるなり。
 そなたのなすべきことがら、まことはこれより先にあり。我らがまことのことわり、さまざまに伝えたるこそはこれより後のつとめなり。
      我も共になしたるなり   我にてあり
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なぜか、征さんと、「我」さんとの間で、ちょっとした親子喧嘩になってしまったようです。でも、そのくらいが、本当の親子なのかもしれませんが。

世の中には、まだまだ人としての形をもった救世主を求めている、個人、宗教団体も多いと思います。
宗教団体の教祖を、救世主であると信じて、自分の判断をすべて教祖に預けて、自分自身で考えようとしない人も、少なからずおられると思います。

「我」さんの言葉を、創造主の言葉であると受け取り、自分自身が自分の救世主であることを信じて、自身の力で人生を切り開いていくことが、「我」さんから求められていることだと、私自身は思っています。

晃月神諭(981218)に、次のような「神への信」の在り方が示されていることを、ご紹介させてください。
神に頼ったり、お願いすることもなく、ただただ自身の「心言行」を神にささげることが、神を信じることだというのです。そのような人を、神は守護してくれるというのです。

神のごしゅごがあるひとは
神にたよるは一もなく
唯々神々いのりまいらせ
心言行を神にささげる
神々のごように生きる日止霊止(ひとびと)は
唯ひたすらにたすけ一条
目には視えない神を信じて、自分の内側にある、聖なるものを発見できたら、素晴らしいですね。
本当は何を信じているのか、今一度、振り返ってみるのも、よいのではないかと思います。

 

山田征さんのご著書の注文先は、以下です。

『ヤドカリハウス』
東京都三鷹市井口 2-18-13