※ この神諭は、親神天之大神の想いを知ることが難しく、地上の宗教はその想いと離れていることを示しています。 そして、晃月先生は、この神諭を何度も何度も説明されました。特に、後のほうの「性正成に誠聖の人」とい短い言葉を。
 
大神の
おもいをふかく知るならば
うそもまこともみなわかるものなり
大神があれせこれせというはなく
ひたすらこどものいくえみている
神々もとわれるならばこたえても
あれせこれせというはなし
神のごしゅごがあるひとは
神にたよるは一もなく
唯々神々いのりまいらせ
心言行を神にささげる
神々のごように生きる日止霊止は
唯ひたすらにたすけ一条
神の名で講をむすんで
あれこれと
どうせいこうせいこれに神なし
みょうらくに
せいじんの道ゆくならば
せいじんは
性正成に誠聖の人
(981218)
 
※ 日止(ひと)とは、大きな日が止まった、後光が射しているようなひとを指します。仏教でいったら、菩薩、如来。
※ 霊止(ひと)とは、肉体に霊が止まった人のことで、いずれ日止になる、途中のひとを指します。
 
【解釈】
大神の想いを、深く知れば知るほど、
嘘も真実もすべて分かってくるものである。
大神が、人間に対して、具体的に、あれをしなさい、
これをしなさいということはない。
大神は、ただひたすら、神の子供である人間がする行動を
見守っている。
下々の神々も、人間から質問をされたならば、
答えることはあっても、あれをしなさい、これをしなさいという
指示をすることはない。
神のご守護を受けているひとは、神に頼ることは一つもない。
ただただ、神々に対して、祈らせていただき、自分の心、言葉、行いを、
神にお供えするような気持ちで、捧げる。
神々から、お役目をもらって、生きる日止霊止は、
自分のことは後回しにして、ただひたすらに、
人を助けて走り回っている。
神の名の下に、宗教団体を作り、あれこれ規則を作って、
入信した人に、どうしろ、こうしろという。
このような宗教団体には神はいない。
人が、明るく楽しく、妙明楽に、せいじんの道を行くならば、
不思議な助けがいつも起きてくる。
せいじんとは、「性」「正」「成」に、「誠」「聖」という
五つの人の在り方をいう。
「性」人とは、15才までの子供時代、本能、欲望のままに
生きるひとのこと。
「正」人とは、15才を過ぎて、自分の責任で、
正しい判断基準をもって、正しく生きるひとのこと。
一角(ひとかど)のひと、一目置かれ尊敬されるひとのこと。
「誠」人とは、その人のいった言葉が、その通りに成る
(実現する)ひとのこと。
「聖」人とは、耳と口が王様のひと。
つまり、聞くこと、見ることにおいて、よいものしか入れない。
よいものしか出さない。という日止のことである。
ひとは、「性」のひとにはじまり、「正」、「成」のひとになり、
さらに、「誠」、「聖」のひとの道に進んでいく。
神がひとに望むひとの生き方とは、そのようなものだ。
 
【補足説明】
この神諭を読むと、カルトや宗教の様子が連想されます。
神諭(950822)を参考のこと。