新年あけまして、おめでとうございます。いよいよ、開示の年、2019年がスタートしました。本年も、よろしくお願いいたします。
では、GLA誌 1976年9月号に掲載された「光の器を」を、ご紹介させていただきます。

晩年の信次先生このメッセージは、「我は」で始まる文章です。このメッセージは、先生ご自身が、「我」という方、から受け取られたメッセージではないかと思います。
先生を失った会員の動揺が、少し落ち着きを取り戻してきた時期に、掲載されました。

光の器を (GLA誌 1976年9月号より)

我は天上界にあっても、決して、沈黙はしない。我を信じ、法を行ずる者には、常に、その者のなかにあって、光と安らぎと、生きる喜びを与えるであろう。なぜなら、法は光であり、慈悲であり、永遠の愛と安らぎあるエネルギーでもあるからだ。
人の魂は、この世とあの世とを生き通しの生命である。両者の間を、さえぎる障害はなにもない。障壁としてあるものは、五官六根による迷いだけである。肉の身を自分と見、肌に触れぬものはなにもないとする自己限定の心だけである。これほど恐ろしい偽我はない。人はいずれは、感覚以外の世界の住人となり、生命の尊さ、素晴らしさを認識しなければならぬものだ。
いま、そなたらに伝えたいことは、法の原点にもどり、自己をつくれということである。美醜、善悪、一にかかって、地上の人間の心一つにある。
天上にあって、そなたらに光を与え、手を差しのべるとしても、そなたらの心が五官におぼれ、六根の輪を広げれば、天上と地上は、ますます厚い壁をつくり、光のかけ橋は蜃気楼のように、頼りないものになるであろう。
そなたらが、心を尽くし、煩悩にうち勝ち、法を依りどころとして生活をするとき、光のかけ橋は、いよいよたしかなものになり、そなたらに慈悲と愛の力を貸し与えることができるであろう。
我は、いま、天上にあって、そなたらの想いと行動を見守っている。誰が、どこで、何をなしたか。百人の心を一瞬にして読み取ることができる。百人とは、たとえであり、千人、万人の心についても瞬時にして知ることができるのだ。これは、肉の身と、そうでない者のちがいであろう。
もちろん、実在界といっても、光の量に区域があって、諸霊の住む世界はさまざまであるが、我の住む天上界は、不可能なことは何一つない。
では、なにゆえにこれが可能か。人の心は霊子線によって、天上界につながっており、人類の霊子線は、我の視界に、すべておさまり、我の心から離れることがないからである。そなたたちが、己を正し、己を光の器とするとき、神の光はそなたらの器に満たされ、安らぎと調和を与えずにはおかない。
我を信じよ。
我を信ずるとは、法にそって生きるということだ。
盲信、狂信は、信の世界ではない。
信の在り方は、そなたたちが、大宇宙の不変的神理にしたがって、生きるということなのだ。
我は光なり。
我は法なり。
我は道なり。
そなたらは、たがいに補い合い、助け合い、手を取り合って、前に進め。そのとき、我は、そなたらに、光の道をさし示して導いてゆくであろう。信じて、疑うことなかれ。

以上です。

今、改めて、このメッセージを見たときに、驚いたことは、冒頭の「我は天上界にあっても、決して、沈黙はしない。」という言葉です。

40年前の信次先生との辛い別れから、今日に至るまでに、私は、様々なスピリチュアルや、宗教に出会ってきました。

その中には、「光と影のやさしいお話」の山田征さんや、「晃月神諭」を受け取った晃月師がおられます。

最近では、世界のチャネラーの中に、例えば、「父なる神 2018年4月11日 手放し方」を発表された、アデーレさんがおられます。

日本では、「かみさまは小学5年生」のすみれちゃんがそうです。

彼らが、受け取った様々なメッセージは、この大元の「我」という存在から降りてきたものだと気づいたのです。
ミカエルさんや、サナンダさんのメッセージにも、すべて、「我」である「父なる神」の存在が感じられます。

例をあげればきりがないほど、「我」は、少しも沈黙されてはいなかったのです。

「我を信じ、法を行ずる者には、常に、その者のなかにあって、光と安らぎと、生きる喜びを与えるであろう。」

という約束は、この40年間、途絶えることなく、果たされ続けてきたのです。

「いま、そなたらに伝えたいことは、法の原点にもどり、自己をつくれということである。...
 そなたらの心が五官におぼれ、六根の輪を広げれば、天上と地上は、ますます厚い壁をつくり、光のかけ橋は蜃気楼のように、頼りないものになるであろう。
 そなたらが、心を尽くし、煩悩にうち勝ち、法を依りどころとして生活をするとき、光のかけ橋は、いよいよたしかなものになり、そなたらに慈悲と愛の力を貸し与えることができるであろう。」

信次先生は、徹底的に、五官と六根に惑わされない「自己をつくれ」ということを、訴えておらます。
五官とは、眼,耳,鼻,舌,身の感覚器官で、六根とは、五官と、それに意識を加えた、眼根(視覚),耳根(聴覚), 鼻根(嗅覚), 舌根(味覚), 身根(触覚), 意根(意識)の六つの根のことです。煩悩の原因になるのが六根です。

私たちが、正法に適った生活をすることができれば、天上界からの「慈悲と愛の力」を受け取ることができるようになります。
この表題である「光の器を」という言葉は、「我」の「慈悲と愛の力」、そして、「我」からのメッセージを、受け取ることができる「光の器」を作りなさい。「光の器」になりなさい。という「我」の願いが込められています。

「己を正し、己を光の器とするとき、神の光はそなたらの器に満たされ、安らぎと調和を与えずにおかない。」

つまり、誰でも、己を正せば、「光の器」になれます。ということです。

このメッセージの終わりで、「信じる」ことの本当の意味を、重ねて伝えています。「信は力」のメッセージのリマインドです。

「我を信じよ。
 我を信ずるとは、法にそって生きるということだ。
 盲信、狂信は、信の世界ではない。
 信の在り方は、そなたたちが、大宇宙の不変的神理にしたがって、生きるということなのだ。」

「我」という存在は、光(エネルギー)であり、法(神理)であり、人が歩むべき「道」そのものなのです。

「そなたらは、たがいに補い合い、助け合い、手をとりあって、前に進め。そのとき、我は、そなたらに、光の道をさし示し導いてゆくであろう。信じて、疑うことなかれ。」

このメッセージは、晃月神諭(961108)と同じですね。

大神の
願いは一つ
神の子が、
共に手をとり
はげましあって、
神仰世界に生きる事。
私たちは、大きな視野を持たねばなりません。「我」のメッセージは、いたるところで伝えられています。
そして、自らが「光の器」となって、父なる母なる神/大神の「願い」(アセンション)の元に、幸せな人生を、歓喜に満ちて歩んでいきましょう。