「あたらしき星への誘い」 その1の続きとなります。ノート八の内容です。
山田征さんの過去世のお話、新しい「十戒」などが、メインテーマとなってきます。

「あたらしき星への誘い」の本の表紙

このノート八の最初の方で、征さんご自身は次のようにおっしゃっておられます。

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……… そしていま私は、そのいわゆる「ひとの過去世なんて……」といったいつもの持論を抱えたままに、私自身をこのようにしてまな板にのせようとしています。
 そのことの結果はまるで目に見えるような気も致しますけれど、まあこのようなおかしな本をあえて世に出した者の一度は通っていく過ぎ越しの道であるかもしれません。とうとう山田さんも何だかおかしなことを言いだした……ということになってしまうのかもしれません。でも、ひとつの物語、教材として、さらっとクールに受けとめていただけたら、とても嬉しいと思います。
 こんな言いわけがましい解説を書くなんて、ほんとにくたびれてしまいました……。
 つけたし
 私の何人かの友人は、この話を面白がって、私のことを「モーちゃん、モーちゃん」と気軽に呼んでからかってくれます。なんだかとてもそれがいいんですね。あそんでいられて……。
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この言葉には、とても共感を覚えました。
私も、このブログを書くことについて、「とうとう黒川さんも何だかおかしなことやりだした……」と、陰でいわれているのではと、内心思うことがあるからです。

いずれにせよ、征さんの勇気に敬服し、英断に感謝いたします。

この「新しき星への誘い」のご本に、征さん自ら記された「モーゼスにまつわるお話」という部分があります。その中の一部を抜き出します。

これは、モーゼスたちが、命からがら、エジプト脱出(出エジプト、エクソダス)をして、荒野に入り、飲料水に困った時のことです。
(征さんの文章を引用します。)

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 そこで神さまはモーゼスへひとつのことを命じます。「そなたの持っているその杖で、そのかたわらに在る岩を打ちすえよ。そうすれば、民人の喉を潤す水が湧き出るであろう……」というわけです。
 でも、その時のモーゼスの胸のうちは大変なものでした。その泣きわめく沢山の人達の収拾のきかぬありさまに、腹立ち煮えくり返る思いでいるのです。「これほどまでに沢山の奇蹟を見せられても、なんと情けない不信であろうか。こんなにも神を信じられないとは……。私はもう知らない。こんな奴らの為に喉を潤す水など出ないがいい!!」と怒りの迸(ほとばし)る想いで満身の力をこめ、神に命ぜられました傍らの大岩を、その持てる大杖で打ちすえていくのです。
 ほんとに出なければいいのに、話はそうではありません。渇きに渇いたその喉と生命を救う清らかな水は、まことに聖水となってキラキラとその岩から迸り出てまいりました。人々がどれほどの歓声をあげ、その水に、その岩にむらがり寄ったかが目に見えるような気がします。
 しかし、それで人々はハッピー・エンドになったでしょうか。いえいえそうではありませんでした。おもむろに非情な神様は申します。
「聞くが良いモーゼス、そなたは私の言いつけに背いたではないだろうか。私はそなたのその杖で、その岩を打ちすえよとは言ったけれど、そなたは水など出ぬが良いとそなた自身の怒りというものを打ちつけた。しかし見るが良い。そなたのその意に反し、ただのこの岩から私は、人々の生命を潤す清らかな水を湧きおこしてみせた。これが私の人間に対する心であり力である。それ故にモーゼス、そなたに言い渡すことがある。アブラハムとその子孫、そしてそなたにもあれ程約束したはずのカナンの地。あの乳と蜜の流れる約束の地に、そなたはもはや生きて渡れる日はないだろう。そして人々よ。私のこのような力と心を少しも信ずることのない心弱き人々よ。そなた達にも厳しく言い渡すことがある。そなた達はこれより先四十年という月日の間、この逞しく力のある忠実なるモーゼスと共に、この荒野(あれの)で過ごしゆかねばならぬことにする。これは私の言葉であり、決してその月日を縮めることも違(たが)えることもない。そなた達はその私の言葉のままに従わなければならない」
 まあこのように冷たく厳しく言い放つというわけなのです。私(征さん)はこの話に出逢った時、そのことの持つ意味のあまりの大きさと厳しさに、どうしても泣かずにはいられませんでした。
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やがて、預言のとおり、40年の歳月を経て、モーゼスに率いられた民人は、ヨルダン川の東岸に到達します。

そして、モーゼスの後継者、ヨシュアが、ヘブライの民人を率いて、カナンの地、あの乳と蜜の流れる約束の地、エリコに攻め入りました。
それが、聖書にある、かの有名なジェリコの戦いです。

イスラエル エリコの遺跡

イスラエル エリコの遺跡

そのとき、モーゼスは、ネボ山の上から、杖を持ち、その戦いを見おろしていました。戦さには勝利しましたが、モーゼスは約束の地に足を踏み入れることなく、この世を去りました。

モーゼス終焉の地、ネボ山

クムランから、死海を隔てて、モーゼス終焉の地、ネボ山を臨む

私は、このご本が出た少し後の1994年の4月から5月にかけて、イスラエルとエジプトの地を旅行しました。

クムランから、モーゼス終焉の地である、ネボ山を見て、何故か深い感慨に打たれました。

さて、「新しき星への誘い」のご本では、「我」さんが、驚くべきことを語りだします。

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 さあ、そなたよ、我が詩(うた)をこそここにありては記したまえ。我こそはそなたの体使いたる神なると知れ。
 さあ、そなたよ、神なるとは何でありしか。我こそはこの大蒼、この宇宙すべからくつくりだしたる源なると知れ。この源なくば、そなたらすべからき生命(いのち)と言いたるもの、この宇宙にはなかりたる。
 さてその源よりいでたる新しき力こそは、そなたのもとなるかの動きつくりたるいまひとつの力、いまひとつ神なると知れ。我らはこの双つの力にて、この大蒼すべからく創りてある。
 そなたよ、今しばし目覚めていたまえ。我はそなたのこのペン持ちたる腕こそ使いて我が意を伝えることをなせり。我はまことかの旧き契約書の中にて記されてあるエホバなり、まことに幾千年の時を越え、いまこそは、いまふたたびそなたの軽き腕使いて我が直接なる文字こそは記したるなり。いまよりは、かの幾千年の昔にありて、かのモーセなる者になしたるがごとく、我が十戒の言葉こそは記したるなり。
一、これよりは、我が創りしこの大蒼、まことによき姿とはなれり。そなたらことごとく翔きたる浄き姿なり。
一、そなたらまことはすべからく我が分身なるも、そのこと忘れ去りぬ。いまこそはすべからくそのこと知る時至りぬ。
一、人と言いたるもの、ことごとく我が分身、我が分霊なるも、いまひとたびは離れたる者とはなれり。しかるにいまよりは我が元なる源に戻りたるときなり。
一、我が元に戻りたるには、そなたらすべからく生まれかわりの仕組と言いたるものをなせり。そのことの理り、まことに知る時にこそなりたるなり。
一、しかるに、いまそのまま我がふところに戻りたるにはあらじ。いまよりは、いまひとたび他なる星にこそは移りたるなり。他なる星にて、そなたらまことに新しき人とはなりたる。
一、そなたらその星に運びたるは、かの大いなるピラミッドの持ちたる新しき波の力なると知れ。その星の上にていまひとたびは新しき人とはなりたるなり。
一、そなたらその星に運びたるは、かの大いなるピラミッドの持ちたる新しき波の力なると知れ。その波の力、すでにことごとく解き放ちてあり。
一、まずは人々、その力をこそ存分に受けたることこそは先なることなり。直ぐななる姿、心のうちにこそはしみわたりたり。
一、善きかな。そなたら他になしたることはなし。ただなすべきは、直ぐななる心にて、我が伝えし理りこそは、我がものとはなしたまえ。
一、さらに良きかな。我がすべからきものなる源なり。我が言の葉、いまこそはかの者の手にこそ委ねたり。かの者の記したる我が言の葉、まことに偽りなきものにてあり。心して受け止むることこそは幸いなると知れ。
 よいであろうか、これらの言の葉こそは、いま我によりそなたに委ねしことなり。いささかも疑いたることなきものとはなしたまえ。
 幾千年もの昔、我はまたこのようにして、そなたの腕のうちに、かの石版こそは抱かしめたるものなり。そのこといささかも偽りなきものにてあり。そなたの記憶のうちにはこのこと想いいださざるや。
 我はまことにいまふたたび、人々の中よりそなたを呼びい出だせり。そなたこそは我がまことの僕なるも、いまよりは心直ぐなになりて、そのこと信ずることこそはまことなれ。
 信じたまえ。我はいまよりはさらなる世界に向いたることを、そなたの胸のうちにてことごとく現しゆきたり。
 そなたよ、いま再び人々率いてかの新しき星にこそは旅立ちたまえ。かの時にありてはひとりヘブライの民にてありしが、いまより向いたる星にありては、すべからき民人、すべからく伴いゆきたれ。
 我もまた共になしたるなり。我のみにてはあらず。いままでそなたの胸にさまざまに語りかけたる大いなる霊たちことごとく伴いゆきたり。
 我こそはそなたの求めたるまことのものなり。そなたの求めたるまことの神なる我と知れ。良きかな。良きかな。    我にてあり
 いまあなたは一体何事が起きたのかと思っているのです。どうぞいまあるがままを信じて下さることを私達は希っています。
 これらのことがなされましたのは、まことに電光石火のような早わざであったことを、あなたは実にまのあたりにしたのではありませんか。かの岩盤に記されました時には、それこそは瞬時のまの出来ごとでありましたが、今はあなたの生身の腕による記述でありましたから、それなりの時間はかかりました。しかしその素早さは、まことに見事であったと言わざるを得ないのです。
 その力への導きを、このたびはまりあの手にてなしてまいりました。まりあの清浄なるエネルギーにて高みへと導き、そして神なるものへと手渡してまいりましたと、あなた自身がいちばんよくわかったことと思います。
 先程のあとでありますから、いま私達は出来るだけ力を押さえてこの記述にのぞんでおります。そうです。あっという間の出来ごとでしたから、あなたは今まで以上に文字に気を使うことが出来ませんでした。最後の良きかなは、善きかなに変える方がいと思います。しかし、どちらでも良いでしょう。良いと言います文字には素朴な優しさがあります。つまりはあなたそのものでありましょう。
 さて、問題は、このことをどう扱っていくかでありましょう。良いでしょう。いましばらくはこのままにしておきましょう。    心からの愛を  いえす。
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何と言うことでしょう。

「我」と名乗っておられた方は、かの昔、「エホバ」と名乗られた、聖書に登場する神さまだったのです。
そして、その「エホバ」より、石版の十戒を受け取ったモーセとは、今生の山田征さんであったというのです。

この話を30年前に、読んだとき、さすがにびっくりしました。
今でも、その驚きは驚きなのですが、30年の歳月が過ぎた現在は、「ただただこうした素晴らしいメッセージを受け取っていただき、ありがとうございます。」という感謝の気持ちでいっぱいです。

ただし、これを受け取られた征さんは、「とても信じることが出来ない内容です。出来るだけ私の力のことはやってみようと思います。モーゼスの過去世はちょっとにわかには信じがたい。」という、謙虚なお答えでした。
私の個人的な感想としては、間違いなく、征さんはモーゼスであり、「我」さんは、創造主の「エホバ」であると思っています。

「我」さんから、翌日、次のようなメッセージがありました。
その中で、十の戒めとは、十の心構えと言い改めます、とのことでした。

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 さて、それではひとつ言い改むることあり、そのことそなた(征さん)の胸のうちなる疑問となりてあるにより、我は改むるなり。
 そはかの「十戒」なる言の葉なり、十戒とはまことは諫(いさ)めの言葉なるも、昨夜にありて伝えしは、まことは戒めの言葉にてはあらず。そは今よりそなたら向(むか)いたる新しき時、新しき星、新しき人としての心構えなるも、我はかの時の言の葉になぞらえてあり。しかるにまた新しき「十戒」、諫めとはなしぬ。
 とは言え、いささかも厳しきことにてはあらず。そなたらことごとく自由なる意志にてつかみとりたまえ、我はさらなること、いささかやさしく、こと細かに伝えてあり。これよりはさらにさらにと伝えゆくなり。彼(か)の時にありては、そなたら人々の暮したる日々のことこまかき諫めごと、幾重にも、幾重にも伝えおきたり。そのことにより、人なるものの天の高みに近づきたる、軽き波動を持つべき心の仕組と言いたることを知らせおきたるなり。
 いまより我らの伝えしことがらは、そのことをはるかに超えたるものなり、人みな、いまこそはまことの自由意志と言いたるもの、ことごとく駆使せるものとはなれり。信ずるもよし、信じざるもよしの仕組なり。
 しかるにこれらのいずくをとりてあろうとも、我らが解き放ちたる新しき時に向いたる波の力、その力こそは、あまねくゆきわたりてあるものと知れ。今よりは人々、ことごとく新しき時のため目覚め行くなり。    我にてあり
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この新しい「十戒」の十の心構えは、特別に厳しいことはありません。
文語調で、少し分かりにくいので、格調がぐっと下がりますが、勝手ながら、口語で言い換えさせていただきました。

一、「我」が作った宇宙は、とても良い姿になった。あなたたちもすべて羽をもった清い姿です。

一、あなたたちは、すべて「我」の分身なのですが、それを忘れています。いまこそ、そのことを知る時です。

一、人は、すべて、「我」の分身、分霊であるにもかかわらず、今は離れた存在となっています。しかし、これからは、「我」の元に、戻る時が来ました。

一、「我」の元に戻るためには、あなたたちは、転生輪廻という仕組みによって、それがなされるという、理(ことわ)りを知る時です。
(注、転生輪廻をくり返すことで、魂の波動を上げていき、「我」の元に戻るということが、その理りです。)

一、しかしながら、あなたたちは、いまそのまま、「我」のふところに戻るわけではありません。今一度、「他の星」に移って、あなたたちは、新しく、本来の人になります。

一、その「他の星」とはどのような星かというと、今の地球よりはるかに軽い波動を持った星であることを知ってください。その星の上で、あなたたちは、今一度、新しい人となります。

一、あなたたちをその星に、運んでいくのは、あのエジプトの大きなピラミッドにある、新しい波の力(エネルギー)であると知りなさい。その波の力(エネルギー)は、すでに封印がとかれて、全て解き放たれています。

一、まず、人々は、その力を十分に受けることを、しなければなりません。素直な姿、心になれば、すべてその新しい力が、あなたたちの体、心の中にしみわたります。

一、よいですか。あなたたちは、他にしなければならないことはないのです。ただしなければならないことは、素直な心で、「我」が伝える理(ことわ)りを、自分のものとしてください。

一、さらに、よいですか。「我」は、全てのものの源です。「我」の言葉を、今、彼(かつて、モーゼスであった征さん)の手にこそ、委ねるものです。彼(征さん)が書いた、「我」の言葉は、本当に偽りがないものです。心して受け止めることが、幸いであると知りなさい。

これが、「我」さんのおっしゃる「アセンション」の計画の概要です。

聖書に出てくる、モーゼがヘブライの民人を従え、割れた海を渡って、エジプトを脱出した、出エジプトの話に、なぞらえて考えると、よくわかるかもしれません。

・旧約聖書の「十戒」を受け取ったように、征さんは、この現代版聖書の新しい「十戒」を受け取りました。
 新しい「十戒」は、「戒め」というよりは、「心構え」ともいうべきものです。
 これは、かつての「十戒」のような厳しい戒律ではなく、自由意志で受け取って欲しい。この「あたらしい星への誘い」は、信じるもよいし、信じないのもよいという仕組みですと、今回の「エホバ」さんは、おっしゃっておられます。
 前回の出エジプトとは違い、今回はヘブライの民人だけではなく、全人類が対象になりましょう。

・一旦、「他の星」へ移動して、新しい生活が始まります。
 他の星へ、私たちを運んでくれるのは、あの「あたらしい氣の泉」のご本で描かれていますが、「ピラミッド」に封印されていて、解き放たれたエネルギーの力です。

・今の時点(2019年1月)で、私たちにとって、一番重要なことは、素直になって、その解き放たれたエネルギーを十分に、受け取ることです。それが出来たなら、私たちは、「他の星」に運ばれます。

・モーセが「十戒」を受け取ってから、約束の地に入るのに、40年の歳月を要しました。この新しい十戒を受け取ったのが、1988年10月14日であるので、ひょっとしたら、「アセンション」が達成されるのは、その40年後の2028年ころになるのかもしれないですね。
そのくらいのスパンで、「アセンション」をとらえていた方が、良いのかもしれません。

ここに出てくる「他の星」とは、いうまでもなく、このご本の表題の「あたらしい星」のことですね。「アセンション」(次元上昇)した、新しい「地球」を意味すると思います。ただし、他の星から転生してきている魂は、故郷の星に帰るのかもしれません。

「アセンション」を目指す私たちは、この十の心構え、青写真を心に焼き付けておくことによって、「アセンション」をしっかり達成することができると思います。

「我」なる神は、既に解き放たれている波の力によって、人々はすべて目覚めていくとおっしゃいます。
昨年(2018年)より、さまざまな天使の名前でもって、「アセンション」についての細かいことが、預言されています。
私は、この2019年こそが、多くの人々が目覚めていくスタートの年になると思います。元号も改まりますしね。
まずは、「我」さんのこのお言葉を、素直に信じて、自身の「アセンション」を進めていきましょう。

P.S.
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