先日、山田征さんの「光と影のやさしいお話」というご本を紹介させていただきました。「光の帯となって」(山田征著)も、アマゾンで販売されていいます。
私は、古い装丁で、随分前に、このご本を読ませていただきました。
実は、「光と影のやさしいお話」と、「光の帯となって」の間には、ノート3~8が存在します。
「あたらしい氣の泉」、「鏡の中のすばらしい世界」、「あたらしき星への誘い」の三冊のご本があります。さらに、「光の帯となって」のあとにも、「吹く風もまた私である」、「もうひとつの世界へ」、「ふたつの世界の間の立って」という三冊のご本が続きます。
このことは、「《山田征非公認》 征さんの♪トコトコいくよ♪」に、紹介されているのを見つけました。このハッピーネットも、非公認で征さんのことを書かせていただいています。
これらのご本は、直接、征さんから送っていただきました。その時のお手紙が、裏表紙の裏側に残っていました。
「何が真実であり、そうでないのかは、誰にもわからないことのように思います。」という、征さんのお言葉を念頭に置いて、日本昔話のようなファンタジーとして読むのも、よいかもしれません。
少し山田征さんのお人柄をお伝えさせてください。
この車は、征さんの愛用車でした。随分昔のことですが、もう20万キロ以上、走っているけれど、まだまだ乗れるのと、征さんはおっしゃっておられました。
元気な方ですが、ご著書を読めば読むほど、その謙虚で、つつましいお方であることがよく分かります。
見えない世界からのメッセージを、ご本にされていても、「内容の真偽は、ご自分でご判断下さい。」というスタンスを貫かれておられます。
そして、石垣島の「白保」の空港建設で、国と渡り合った、武勇伝を持っておられます。また、ヤドカリハウスというお店も運営されているようです。
征さんのこうしたバックグラウンドを理解して、楽しまれるのがよいかと思います。
「光の帯となって」は、30年前、1988年の10月18日~12月5日の間に、征さんが受け取られたメッセージです。
その中から、メッセージを抜粋して、少しご紹介させて下さい。
旧版「光の帯となって」十月十九日(水) P.24~P.27 ↓ 「それではいましばらく語り合うと致します。いまからあなた方が向うべき新しい星、新しい世界のことについてなのです。 この前あのお友達が言っていましたように、どこか他の星から空飛ぶ円盤がやってきてあなた方を乗せていくとか言った、そのような話ではありません。あなた方はすべてその肉体を離れて、あなた方本来の霊的な姿になって、この地球を離れていくのです。それらは、今この地球上に住む人々が一ぺんにと言うことではありません。準備の整った者から次々と飛び立っていくことになりましょう。
その時の様子を、いまあなた方の暮らしの中のもので考えてみることも出来ましょう。たとえば、あなた方が入浴いたします時に、まるで体を濡らさずにいきなり湯船に入るといたします。そう致しますと、その体の表面に付着していました空気が次々と集まり、無数の泡のような状態になり、ひとりでに体を離れ、湯船の表面に向って浮上したまいります。
もちろんこれらのことと全く同じであるとは言えないのですが、これはひとつのイメージとして使えると私達は考えたのです。むしろ私達は、一年に一度、美しい月の夜にサンゴが卵を産むときの情景を言いたいと思いましたが、あの姿は誰もが想い描くことのできるものではありません。
その時あなた方は、ごく自然に成りゆきにまかせていれば良いだけのことなのです。ある時気付いたら、あなた方はまた別なる星の世界に居たと言うことになるでしょう。あまり移動のことについての心配はいりません。
むしろ、それ以前のところに問題があるとおもわないでしょうか。人はどのようにして軽く素直になったら良いのかということなのです。 本当は、少しも難しくも大変でもないことなのです。人々がすべてのことを素直に、あるがままに受け止め、何ごとにも執着心をを残さないという姿になれば良いだけのことなのです。 そうです、最終的には、生きると言うことに対しての執着心であると言えるでしょう。あなた方が今生きていること、そしてまた死を迎えますこと、そのどちらも同じことであると知りますならば、おそらくは死に対する恐怖、あるいは生に対する、つまりは生命に対するる執着心を取り除くことが出来るのではないでしょうか。 まずは物に対して、またさまざまなる出来ごとに対してのこだわり、あるいは権力や知名度など対しての執着なども同じであると言えましょう。そのようなことも少しずつと取り払っていくと良いのです。 また、もうひとつ大きなことは、いわゆる一般的にいいます神仏(かみほとけ)に対する執着、こだわりと言ったものではないかと思います。また、それらのものに対する祈りといったものもあります。 祈りとは何でありましょうか。まずほとんどの方々のそれは、祈りではなく、願望であると言えましょう。神や仏へのお願いでしかありません。まことの祈りとは、生きてよし、死んでよしの境地でありますから、もはや何も願うことはありますまい。しかし、なかなか人はそこまでにはなりきれないものなのです。 その域まで行きました者の姿は、ある意味では人の目に無感動、無神経となって映る場合もあるでしょうし、何のことはありません、ただ素直に生きているだけの人の姿なのです。ただ日々の暮しを、成るがまま、あるがままに受け止めていく姿であると言えましょう。 とは言いましても、冷たいわけでもなく、ほんとうに無神経であるわけではないのです。前にも申しましたように、極限に近いスピード、動き、波動といいますものは、そらがまるで止まっているかに見えると言ったその原理が、人の姿、精神の中にも働くということなのです。 少しばかり難しく、理屈っぽくなってしまいましたでしょうか。まあこの話はこの位で良いでしょう。
とにかく、あなた方人々がいま大急ぎで生まれかわりの事実を知ることで、いかようにも世界が深く広く開けていくということです。そう致しますと、いまこの世の中で起きてまいりますありとあらゆる全ての不和、不平等と言ったネガティブな現象の持つまことの意味を知ることになり、徐々にその心の中にわだかまり続けましたこだわりや不満、怒りと言った感情を鎮めることが出来てまいりましょう。そのことがまた、すべてのものに対する執着といいますものを取り除いていくことになるのです。 いま私達は、これらのこと、それらのことを実にさまざまな角度からお伝えし、知っていただきたいと努めているのです。出来るだけ大勢ぜいの方達と一緒に旅立っていきたいものです。
そのようなことは、今ある地位や智識とは一切関係ありません。いま人々がどのような暮し、生き方をしていましょうとも、その置かれました立場立場でこのことに気付いてくだされば、それで良いのです。 これらのことは、学問的智識や、いわゆる社会的な常識で解ると言うものではありません。むしろ、下手な智識などない方が良いのです。非常に感覚的なものであると言えるかもしれません。 さあ、ずいぶん遅くなりました。これで終るといたしします。 いえす」
いえすさんは、さすが、「アセンション」について、多角的に捉えて、解説をされています。このころ30年前は、「アセンション」、という言葉・概念が、はっきりしていませんでした。知っている人も、ごく限られていました。
それを、「実にさまざまな角度からお伝えし、知っていただきたいと努めている」いえすさん、天使さんたちのお陰で、「アセンション」もここまで、近づいてきました。天使さん達からの情報を、ブログで拡散することが、ひとつのお手伝いになるかと思い、このブログを書かせていただいています。
この地球から、「アセンション」する人が、ひとつの光となり、一人また一人と、旅立っていく状況の光景が、このご本「光の帯となって」の題名になっています。「アセンション」は、このようなイメージで、起きるのですね。
いえすさんだけでなく、なんと仏陀さんも、登場です。
「はい、私は仏陀です。お久しぶりです。... これからはますます多くの霊的な力を持つ人々が現れてまいります。私からメッセージを受けているといいます者もおりましょうが、もちろん私達はこのようにして、出来るだけ多くの人達に私たちの真意を知っていただく働きかけをいたしております。しかし人々は、やはりその者その者の持てる能力(ちから)の範囲でしか私達の心をキャッチし得ないと言うことです。 これからは、そのような方々の本当に持てる力をぜひとも力づけ、目覚めさせ、引き上げていくことをしてまいりたいと思います。それにはあなたのようなごく普通の立場の人が、人として関わり合いますことが一番良いことであると私達は考えております。 今日はまたこのようにしてお話する機会を得まして、ほんとうにようございました。必要な時には何時でもまた私の力をお使いください。喜んで提供いたします。 仏陀」
そして、仏陀さん、まりあさんの後に、なんと、「我」さんも、語りだされます。びっくりですね。
この次のメッセージの「我」というサインは、ブログ「光の器を」で登場された「我」と同じエネルギーだと思っています。
「そうです。私はまりあ、私の波動はこのごろはずいぶんこまやかになっているでしょう。 そうです、私がこの力であなたに働きかける時は、いまから何が起きるか、あなたはよく承知しています。私の波動はかのお方へのひとつの橋わたしの役目をいたします。 ほらもう良いですか、だんだんとエネルギーのかかり具合が変わってきたことを感じはじめているのです。私とあなたの力とが合わされますと、いかなる力に変化致しますか、これは良いサンプルといえましょう。
さあ、用意は整ったであろうか。今宵もしばし、また直接そなたの腕(かいな)使いて語りかけるであろう。 そなたのうちより流れいでしこの力こそは、つきたることなき泉の水なり、かの解き放ちてあるピラミッドの新しき泉の力なると知れ。(注、この泉は、「あたらしい氣の泉」という征さんのご本の「泉」のことです。) 今宵もまたその新しき泉の力、そなたの指より噴きいだしてあり。 そなたよ、いささかもおそれることはない。我はまたそなたのうちにてさまざまに働きてあり。これらの力まことに直ななる心にて受けたるものにありては、いまよりは新しき心にて人々の前に立ちてあるなり。 そなたよ、そなたに与えしこの新しき力こそは、まことに惜しみなく使いこなしたるこそはつとめなると知れ。 これより我がなしたることは、そなた一人にてはなしたることあたわざるものにてあり。 まことにあまたなる人々そのままにありて、我が力受くること可能とならしむることこそは我が希いなると知れ。そは、そなたらの心のうちに眠りてある我が根源なる火種子(ひだね)こそは掻きおこし吹きおこしたることをなしたるなり。そのことにより解き放ちたるかの新しき力こそは受け止むるなり。 その掻きおこし吹きおこしたる術、さまざまになしたるなり。そのことのため、あまたなる能力(ちから)持ちてある者、その力いや増さん。 そなた、そのことの役割こそはなしたまえ、そなたの前にさまざまなる者さまざまに送りたるなり、よきかな。
我が眠りたるごとく記したるこの力、この言の葉、我が稲妻のごとく記したるこの力、この言の葉、すべからくまことのものなるものを、そなた心して受け止むるようにと我は強く申し述ぶるなり。我こそはそなたの親なるものを、よくよく知りたることこそは幸いなり。 そなたには、またよき友あまたあり。そなたと我なる働きなしたる者あまたあり、すべからく我が送りたる者にてあり。心を合わせたまえ、力を合わせたまえ。 我にてあり」
「まことにあまたなる人々そのままにありて、我が力受くること可能とならしむることこそは我が希いなると知れ。」なんてことを、「我」さんは願っておられるんですね。
「そは、そなたらの心のうちに眠りてある我が根源なる火種子(ひだね)こそは掻きおこし吹きおこしたることをなしたるなり。そのことにより解き放ちたるかの新しき力こそは受け止むるなり。」
これは、神の子である人類が、特別なことをしなくても、全ての人が「我」さんの力を、受け取ることが出来るようになるということです。それが、「アセンション」を通して、実現されることだと知りました。
全ての人類の心には、「我」さんの「根源なる火種子」が隠されています。それを「我」さんが掻きおこし、吹きおこすことこそが、「アセンション」の本質ということに、改めて気づかされました。
「火種子」(ひだね)とは、本当にうまい表現ですね。薪で火をおこすときに、最初に火種子を作ります。その火種子が、薪に燃え移り、薪がどんどん燃え広がったいきます。一人一人が、火種子となって、それが周りの人に燃え移り、人類全体が燃え上がり、一人一人の「アセンション」が、全体の「アセンション」につながり、父なる神 五次元の自分へアクセスのブログ その2に出てくる「惑星アセンション」が成し遂げられていくのでしょう。
「我」さんは、このことを、30年前に、「人類へのメッセージ」として、征さんに伝えられていたのです。