このメッセージ「反省と調和」は、信次先生が、講演会でお話になっていた内容の、集大成といってよいでしょう。「永遠の生命」であることを自覚し、反省を通して、自己を悟り、調和ある生活に進むことを説かれています。

晩年の信次先生

反省と調和 (GLA誌 1976年10月号)

あの世とこの世のちがいは、この世の執着の有無にあるといえよう。本来、人の魂は生き通しの永遠の生命であり、思うことが現れる自由と創造の世界だけである。人の魂が肉体という乗り舟に乗ると、肉体にまつわる執着に心がとらわれ、その執着心が魂を汚し、心の眼をふさいでしまう。
人の魂が、出生と同時に、盲目同然となるのは、周囲の状況、人の心の在り方が肉中心の生活に流されているためであり、幼い心もそれに染まり、盲目となってゆくからである。もし人びとの心が魂の永遠を知り、執着の重荷を悟るようになり、さまざまな習慣、思想、環境、教育がそうした方向に向けられるようになると、幼い心はそれに眼をひらき、盲目の人生を歩まないで済むようになろう。
子どもの心は白紙であり、赤にも青にも染まってゆく。染めてゆく者は、ほかならぬ両親の生き方であり、大人たちの考えや行動にある。日和見の親には、日和見の子ができようし、愚痴の家庭には不満分子を育てよう。子が親に似るのは、親の生き方を子が真似るからだ。
こうしたさまざまな執着は、やがて人びとのカルマをつくり、肉体を脱ぎ去っても容易に離れることがない。苦しみはあの世に行ってからもつづく。その苦痛はこの世よりひどいものだ。なぜかというと、肉体があると肉体の環境が心の負担を軽くし、いっときまぎらわしてくれるからだ。たとえば、心配ごとがあって夜寝られないとする。すると、睡眠薬が心を眠らせる役を果たしてくれよう。また、あることに心が執着し苦しくなっても、環境が変わり視界が変わると、心の負担忘れることができるではないか。こうしたことでは根本的な心の転換にはならないが、しかし心を替える療法には役立つであろう。
ところが、肉体のない心の世界は、心だけがすべてであり、肉体の習慣、執着を持ちこめば、その波動の渦の中に自己を置くことになり、肉体の便法を借りたくても借りることができない。腹痛で苦しみながら、死後の世界に入れば、その腹痛の苦しみがついてまわる。肉体のない自己を発見するまでその苦しみはつづく。肉体の苦しみ、心の悩みは、ほかならぬ肉の身を通しての執着の現れであり、これがあるうちは人の生命はすこやかに生きられないし、死後の世界は執着の分量に応じて厳しいものとなろう。
また自己を愛するごとく人をいかに愛したか、これもまた、死後の生き方を決めてゆこう。
人の生命は肉体の生死にかかわりなく、生き通しの魂である。肉の世界には肉の生き方もあろうが、肉は心の写し世であり、肉のなかにあっても心に影をつくらぬ生き方が大事であろう。
心に影をつくらぬ。つまり執着から遠離(おんり)する。愛深き自己を悟る。そうするには、生まれてから今日までの想念と行為を洗い直し、執着の原因となるものを取り去ることだ。反省を通して心を軽くすることは、肉体をも軽くし、今の生活を安心にし、死後の安らぎにも通じてくる。
反省と調和の生活を忘れてはならない。

以上です。

このブログをお読みになっておられる方たちは、人の魂の本当の姿、反省の重要性と、調和のとれた生活との関係は、ご理解されておられると思います。

個人的な体験を、少しシェアさせてください。

私は、20歳の頃、高橋信次先生にお会いすることで、自分がかつてお釈迦様の時代に、インドに生を受けたということを、思い出させていただきました。

そのことによって、「本来、人の魂は生き通しの永遠の生命であり、人の魂が、出生と同時に、盲目同然となる」という事実を体感しました。

しかし、それはあくまで、スタートラインに立ったことでしかありませんでした。

そこから、安らぎと調和の生活に至るまでには、様々な体験をさせていただきました。

「何でこんな理不尽な目に合わなければならないのか?」と思うことに、しばしば出会ってきました。

「離婚」という体験も、その一つです。
今となっては、3人の子どたちと、時々一緒に食事をしたり、ドライブや旅行に行くこともできます。

「離婚」直後の10年間近くは、いくら会いたいと思っても、全く会わせてもらえない、苦しい日々が続きました。

しかし、晃月師との出会いをきっかけにして、神仰の道を歩むようになり、師との出会いから、5年ほどたったある日、突然、長男が家にやってきました。そして、次男も、時々遊びに来るようになりました。
その1年後、長男は夜逃げをして、祖母と私が二人で住んでいた家に、戻ってきたのです。そして、その1年後に、長女と次男も戻ってきて、一家5人で暮らすようになりました。
まるで、奇跡のような出来事でした。
その理由は、晃月師と出会ったことで、神に向かう祈り(十三神の祈り)を始めたからだと思っています。

この体験は、一つの例であって、様々な体験を味わうことで、人は調和に向かうことができます。

信次先生にお会いした当時、都会を離れた山里のような静かな環境の方が悟りやすい、と思っていました。しかし、実は、それは誤りで、日常的に人間関係で悩むような環境でこそ、人間は目覚めて、調和に向かうことができると思うようになりました。

人は、すべてそれぞれの人生を、ベストの形で歩んでいます。
「我」、「父なる神」は、すべての人の人生をお見通しです。
ただ、黙って、見ておられるのです。やるかやらないかは、ひとえに自分自身にかかっています。