山田征さんのご本、「吹く風もまた私である」(1992年8月10日 初版)に出てくるお話で、「啐啄同時」の続きとなります。
この「あたらしい緑、あたらしい生命、緑の蝉のお話」というのは、とても入り組んだお話で、何が本筋のテーマだったのか、非常につかみづらいお話です。

京都の緑

この征さんのノートに語りかけてこられる「あちらの皆さま」は、いつもとても重要なことを、いとも簡単におっしゃいます。
「まりあ」さんは、ノート二十五で、征さんに語りかけます。

「吹く風もまた私である」 P.299 – 303(ノート二十五より) 蝉の脱皮
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 そうです、なんだかとてもおかしいですね。こんなにも長くと言いますが、幾日にもかかってしまいますと、いったい何が本筋のテーマであったかを見失ってしまいます。しかしまあ良いでしょう。
 あの小さな生き物であります幼いセミがあの暗い土の中にありました長い年月のこと、そしてまたその暗い土の中にありながら何回も何回もその生長に伴いながら脱皮と言いますものをくり返してまいりますその姿こそは、もちろんいまのあなた方人々のその魂、心の成長過程にとてもよく似ていると思わないでしょうか。人はまことに今度こそは自分の本性に気付き、新しくまことに自由な世界へ旅立てるものと考えているのでした。しかしその過程と言いますものは、まことにもってその土の中の蝉の生きざまにとてもよく似ているのでした。
 しかしごらんなさい。あなた方人々のこの度の脱皮こそは、この地球と言いますひとつの土の中、卵のカラの中から抜け出しまして、かの大空、まことに広大なる他の天体との関りをいかようにも持つことの出来ます大宇宙に向けての脱皮、旅立ちであるといえましょう。
 あの這い出でました蝉の幼虫、そのかたいカラの中から、あの美しい緑の幼児(おさなご)、新しい緑の生命は生まれいでたのではなかったでしょうか。
 誰もがあの土にまみれたうすぐろいころころした姿形の生物の中から、あのように美しいまるで紗(しゃ)のようにうすい繊細な羽根衣(はごろも)をつけた緑の幼児、緑の生命が生まれいでることなど知ることはなかったのでした。少なくとも、いままでのあなたは知らなかったのでした。
 さあここまで語りましたならば、いまこの蝉の話にことよせて私達があなたに伝えようとしていますことが何であのかを、あなたはその感覚の中でよく識ることが出来ているのではないでしょうか。
 そうです、すべてはひとつの出来ごと、ひとつの予定されましたあたらしい素晴らしい出来ごとの為にそのことは、象徴され繋がってまいります。あなたがあのはるかなる参道を登り、その奥にあります社にて行いましたその一つの仕草、その仕草こそはまさに、この、新しい出来ごとの為のファンファーレであり幕開けのデモンストレーン、いえ合図でもありました。
 そうなのです、人々はその光にすぐに気付くことはないのです。あるいはごくわずかなる光の専門家であります科学者の手によりそのことはすぐに識られ、さまざまに分析もされ、それなりのコメント、理由づけと言いますものがなされてまいります。しかし、まことはそのことは解らないのです。その光、光線と言いますものは、まことに微妙なる波動、バイブレーションを発しているのですから、人なる者の手により発明され造り出されました計器と言いますものにては決して捉えることの出来ないものであるといえましょう。
 そうなのです、あなたはあの(タジカラオノ命の)仕草の出来ごとのあと、まことに凄じい光を発しましたあの火の玉”太陽”と言いますものを初めてその目にしたのではなかったのではなかったでしょうか。何げなく見たかのようなその新しい光の太陽こそは、その切り裂かれ切り開かれました大いなるも素晴らしき卵のカラにもたとえることができますその裂けめを透して見えたものではなかったでしょうか。そのことを、いまこのようにして私達はここに改めて伝えなければならないのです。あれらの出来ごとは、ただたんなる楽しみの為のパフォーマンスなどといったものではありませんでした。
 ただ、これらのことに対しましての心構えと言いますものは、まだほとんどすべての人々の中でなされてはいないのです。いえむしろ、そのようなものなど無い方が良いかもしれません。まだほとんどすべての人は、これらの出来ごとをそれなりによく理解し掴みとっていくだけの心の支度、準備が出来てはいないからです。ほとんどすべての人々は、まだまだそのようなことは恐しくて、決して受け入れることなどはできないと私達は考えてもいるのです。ですから、すべての人達にとりまして、このことはすでに”済んだこと””成されたこと”としての既成事実として、後の世にあって識られていくことが良いのかもしれません。
 新しい太陽の光、光線と言いますものは、まことにいま新しく発生し生まれたものではありません。たとえそれが緑の太陽、緑の光線を発するものであったとしましても、この大蒼、宇宙の中では決して何も珍しい出来ごとではありません。それは宇宙の中のごく自然な物質、つまり光線として存在し続けてきたものでありました。ただあなた方この丸い地球の上に生きていますありとあらゆる存在の上に直接ふりかかる、いえ降り注がれていくと言いますことがいままでは無かったにすぎません。
 そうなのです、いまそのようにして新しく入ってまいりましたこのいとも強力な新しい質の光線は、いわばあなた方にとりましての”あたらしい緑”であると言えましょう。そしてそのあたらし緑の光は、あなた方人々の上にも、また他に生きるさまざまなる動植物の上にも、まことに多岐多様なる影響と言いますものをもたらしてまいります。それはあるいは災害、害悪と言われる形のものであるかもしれません。なぜならば、まことにこの地上的なすべての存在にとりまして、そのことは全く新しい遭遇であるとも言えるのですから、まことに急変、急速なる変化と言いますものを余儀なくされてしまうことによるものなのです。そのことは全く現在(いま)なる人の眼からみてどうなのかと言うことにしかならないのですけれども、人はそのようなことを決して良い意味では捉えてはまいりません。しかし、あなた方はそのことを決して避けることは出来ないのです。そしてまたそのことを通して、ほんとうに新しい時代、新しい世界は始められてまいります。それこそが”新しい生命”の誕生ということではないでしょうか。
 そうなのです、いま私達は、これらの変化変容と言いますものを出来るだけ少なく低い速度のものにおさえてまいりたいと考えているのです。そのことは、あなたには前にも一度お話してあると申せましょう。   あいしているのですよ  まりあ
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本当に、この文章を読むと、なんだかとても可笑しくなってしまいました。

「あちらの皆さま」は、本当に余裕があります。

「あなたはあの仕草の出来ごとのあと、まことに凄じい光を発しましたあの火の玉”太陽”と言いますものを初めてその目にしたのではなかったのではなかったでしょうか。何げなく見たかのようなその新しい光の太陽こそは、その切り裂かれ切り開かれました大いなるも素晴らしき卵のカラにもたとえることができますその裂けめを透して見えたものではなかったでしょうか。そのことを、いまこのようにして私達はここに改めて伝えなければならないのです。あれらの出来ごとは、ただたんなる楽しみの為のパフォーマンスなどといったものではありませんでした。

 

上のメッセージは、山田征さんが、戸隠神社で、執り行ったあの「天の岩戸開き」の神事で、垣間見たまことに凄じい光を発しましたあの火の玉”太陽”の光は、単なる楽しみのパフォーマンスではなく、実際に新しい質の太陽の光を、閉ざしていた「岩戸」を明けてしまったのだと、おっしゃいます。

この言葉は、大天使ミカエルの次の8月1日付のメッセージの中にある、思い起こさせます。

「父/母の創造主の命により、エロヒムとフォーム・ビルダー達が新しい創造的なデザインに使用するために、ピラミッド型の光の宝物庫から、創造主の光が注がれます。」

「これらのことに対しましての心構えと言いますものは、まだほとんどすべての人々の中でなされてはいないのです。いえむしろ、そのようなものなど無い方が良いかもしれません。まだほとんどすべての人は、これらの出来ごとをそれなりによく理解し掴みとっていくだけの心の支度、準備が出来てはいないからです。ほとんどすべての人々は、まだまだそのようなことは恐しくて、決して受け入れることなどはできないと私達は考えてもいるのです。ですから、すべての人達にとりまして、このことはすでに”済んだこと””成されたこと”としての既成事実として、後の世にあって識られていくことが良いのかもしれません。」

 

知らないうちに、終わってしまう方が、ほとんどすべての人々にとって、良いのだと、知らぬが仏と、言わんばかりのメッセージです。
ただし、それが終った後で、このことを予見していたという証拠が根メッセージの役割である歌のように、語られています。

「新しい太陽の光、光線と言いますものは、まことにいま新しく発生し生まれたものではありません。たとえそれが緑の太陽、緑の光線を発するものであったとしましても、この大蒼、宇宙の中では決して何も珍しい出来ごとではありません。それは宇宙の中のごく自然な物質、つまり光線として存在し続けてきたものでありました。ただあなた方この丸い地球の上に生きていますありとあらゆる存在の上に直接ふりかかる、いえ降り注がれていくと言いますことがいままでは無かったにすぎません。」

上のメッセージは、昨年(2018年)、8月8日のライオンズゲートや、12月21日の冬至の辺りで、エネルギーがより一層解放されて、強くなるという趣旨のメッセージが、インターネット上で流れ来ました。何のことか理解できずに、そういうことが、視えない世界でおきているのだなあ、というような認識しかできませんでした。

そしてそのあたらし緑の光は、あなた方人々の上にも、また他に生きるさまざまなる動植物の上にも、まことに多岐多様なる影響と言いますものをもたらしてまいります。それはあるいは災害、害悪と言われる形のものであるかもしれません。なぜならば、まことにこの地上的なすべての存在にとりまして、そのことは全く新しい遭遇であるとも言えるのですから、まことに急変、急速なる変化と言いますものを余儀なくされてしまうことによるものなのです。そのことは全く現在(いま)なる人の眼からみてどうなのかと言うことにしかならないのですけれども、人はそのようなことを決して良い意味では捉えてはまいりません。しかし、あなた方はそのことを決して避けることは出来ないのです。そしてまたそのことを通して、ほんとうに新しい時代、新しい世界は始められてまいります。それこそが”新しい生命”の誕生ということではないでしょうか。

昨年、2018年は、超大型台風で、関西空港が閉鎖されたり、そのすぐ後で、震度7の地震が北海道で起きるなど、異常な天災が頻発しました。

30年前に、そうした未来を予見しているかのようなメッセージです。

「そうなのです、いま私達は、これらの変化変容と言いますものを出来るだけ少なく低い速度のものにおさえてまいりたいと考えているのです。」
上の言葉は、30年前から、少しずつ少しずつ、地球を変化させて、出来るだけ急速な変化を起こさないように、配慮するとおっしゃっています。
これらの「決して避けることは出来ない」こととは、おそらく、これから、起きようとしている「イベント」、「アセンション」を指していると思うのです。
そのための「下準備」が、30年前より、着々と進められてきたのだなあと、私には思えるのです。
そして、「アセンション」の後の世界を、「あたらしい緑、あたらしい生命」と呼んでいるのです。