私が一年ほど前まで、通っていた教団では、「門の外」という言葉がよく聞かれました。 神様がいる場所に入れない人を、「門の外」と呼び、「門の外に出た者に再生の道はなく 塵芥の如く燃え尽きるであろう」という言葉で、半ば、脅していました。
しかし、神様がいる場所(晃月先生のかつてのお住まい)で、神が退いてしまったらどうなるのでしょうか?
10月の月例祭の教祖さまの次のお言葉は、お祈り場所の「晃月先生のかつてのお住まい」について、「このままでは、神が退くぞ」と言っているように受け取れます。
「もう先が見えてません。 神が退かんうちに、なーんとか。 よーお、考えてな。」
そのお祈り場所も、「門の外」になってしまうのではないでしょうか?
そこの教団に所属している人たちは、いつの間にか、すべて、「門の外」となり、再生の道はなく、塵芥の如く燃え尽きてしまうのでしょうか?
私の周りには、2014年の不祥事を機に、「門の外」に自主的に教団を去ってしまった人が何人もいます。
実は、2014年に、次のような不祥事が起きました。
ある人が、お布施の大金を、自分の懐に入れて、遊びのお金に使っていたのです。企業であれば、業務上横領です。
本人が告白した金額は、月額80万円でした。そのうち、20万円は中国にいる愛人に仕送りしていたそうです。その愛人との間には、何と子供まであったそうです。
こういう人こそ、「神に欺きし者」であり、「再生の道はなく 塵芥の如く燃え尽きる」ということではないでしょうか?
自主的にその教団を出た人たちは、神を欺くようなことは、何一つしていません。ただ、その不祥事に嫌気がさして、そこを出ただけです。
ある方は、教団を出ても、少しも不幸なことはなく、お会いしたときもいつもニコニコされていて、とても幸せにみえます。
そして、「私たちは、お神に護られています。」と、おっしゃいます。
最近、2018年の秋に、ある方は、「門の外」を言い渡されました。
その人は、その教団と、幹部の方たちに、とても尽くされた方でした。私が見ていて、「よくそこまで入れ込めるなあ」と思えるほどでした。
しかし、竹炭焼きの些細な失敗を咎められて、無情にも「門の外」を言い渡されました。
その方は、「これだけ貢献したのに、この仕打ちは何だ。」と、憤懣やるかたない様子であったそうです。
「門の外」の人が、そのまま「神に欺きし者」ではないことは、明らかです。
そこに集まる人たちは、「門の外」の人になると、「再生の道はなく 塵芥の如く燃え尽きる」という言葉で、マインドコントロールされているのです。
本人たちは、「門の外」に出ないように、必死なのです。
その門の番人の方も、門の番をすることが、自分の使命であると信じ、一生懸命なのです。
晃月師は、2017年9月1日の月例祭で、次のようなお言葉を語られています。
「ほんまに、何が一番大事かということを、今考えなあかんやろ。 自分の今生きてる世界が一番大事なんか。えー。 今生きているこの時間が大事やったら、今ここに(お祈りに)来ている必要もないやろ。 えー、みんな、な。 自分のこれから、御霊のこれから、神霊のこれからのことを思うて(お祈りに)きてたんちゃうんか。えー。」
その場所に来てお祈りをする、本当の目的は、自分の御霊のこれから(つまり、神元への出直し・アセンション)のことを考えてのことではなかったのか?ということです。
本来の目的を忘れて、いつの間にか、「門の外」に出されるのを恐れて、お祈りに来るようになっていたのでした。
これを、高橋信次先生は、「盲信狂信」とおっしゃいました。