「床屋ウパリの入門」のブログで、書かせていただいたことですが、奴隷階級(シュドラー)出身のウパリの入門が仏陀に許されることになりました。そのことで、カピラ城では婦女子の出家も許されるのではないかと、期待が高まります。
女性も男性も、神の前には平等であることは、仏陀も当然のことと考えておられました。
それは、バラモン階級であっても、シュドラー(奴隷)階級であっても、みな平等であることと同じことです。
それは、バラモン階級であっても、シュドラー(奴隷)階級であっても、みな平等であることと同じことです。
女性も男性も、平等という見地から、女性に対しても、男性のサロモンと同じように、悟りへの修行の道を開くのは、当然といえば、当然のことでした。
以前、「愛の心、愛の営み」のブログの中に、次のまりあさんの言葉がありました。
「古今東西、いわゆる悟りを得ることを生きる目的とした多くの行者は、いかにしてそのような感情から離脱し得るか、肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中で、どのようにして生を全うし得るか、等と苦労したはずではないでしょうか。なかなか人には、そうたやすく聖人君子とはなり得ないものです。ですから、あのゴーダマ仏陀の悟りの過程にも、そのような苦労話しはしっかりと語られております。」
悟りを目的とした修行のために、修行者は、恋愛感情や肉欲といったものから、離脱する必要があります。
若いサロモンにとって、婦女子の出家は、「肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中」での修行の妨げになることが、容易に想像できました。
若いサロモンにとって、婦女子の出家は、「肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中」での修行の妨げになることが、容易に想像できました。
そのため、婦女子の出家を許すことについて、仏陀は考えあぐねておられたのでした。
高橋信次先生のご著書「人間釈迦 4」には、婦女子の出家が認められた経緯が、描かれています。
「人間釈迦 4」P.230~P.243
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サンガー人(仏教教団の僧)は、当初マイトレーヤ(弥勒菩薩)など四人の女子以外は、すべて男子にかぎられていた。
ところがブッタがカピラに帰城してからは、シャキャ(釈迦)族の間で、婦女子の出家を認めよとの声が急速に高まっていった。
ブッタはこれには閉口していた。
婦女子が加われば修行に情が入り、迷いが多くなる。迷いを断つには迷いに陥る環境を除くというのが修行の趣旨だった。
サンガー人は執着の要素になるものは、すべて捨て去るという前提で来ている。バラモンの最終修行は一切の執着を断つ遊行にあるが、サンガー人も遊行にすべてをかけていた。
そこに婦女子が加わればどうなるだろう。サンガー人はバラモン種のサロモンと異なり、みな若いので、迷いの対象をつくらないとは断言できない。
ブッタは聞かぬふりをしてこの問題を放っておいたが、やがてサンガーにも婦女子が加わり、男女平等の修行がはじまるのである。
(中略)……
婦女子の出家にはブッタは考えあぐねていたが、慈悲と平等を説く法の立場からこれを拒むことはできず、真に道を求める者には入門を認めることになった。
この報を聞いたカピラの婦女子からドッと喊声が上がり、事情の許す者はブッタのいるニグロダ目指して行進した。
彼女らの出家は、何人かがひとかたまりとなって入門するので、ニグロダの修行場は急ににぎやかになっていった。
また、愛人に捨てられた商家の若い娘とか、シュドラーの女も入門してくる。
彼女らの入門は男たちより厳しくはなかった。在家の女たちの地位は低く、女は男の道具にすぎなかったので、ブッタはそれを救う意味もあって、そう厳しくはしなかったのである。
ただ、入門は容易だが、サンガーの風紀を乱す者は破門することにした。したがって修行の方法は男子と同じようにやらせた。
日中は遊行乞食に町に出る。また反省、瞑想の中身も男子と変わらず行わせた。しかし修行の中身が男子である比丘と同じであっても、野宿というわけではゆかなかった。
バラモン種のサロモンのように、晩年夫婦連れだって遊行するというのであれば、それはそれでよいだろうが、ブッタ・サンガーの比丘尼は若い娘が多く、野山の一人寝は山賊や獣に襲われる危険があったからだ。そこでブッタは、彼女らの比丘尼の宿泊は精舎内と決め、精舎が収容できないときは、男子は野外で過ごせることにしたのである。
修行も男女別々の場所で行わせることにし、比丘尼の指導はマイトレーヤーがこれに当たった。婦女子の出家許可によって、ブッタ・サンガーは急速にふくれ上がった。
女子の一念は男子より急であり、そのため、霊道を開き、過去世を思い出す者が比丘より多くなっていった。もちろん、なかには悪霊に心を支配され、目的を見失う者もあって、マーハー・カシャパー、ヤサ、アサジなどの仕事がふえていった。つまり、これらの人びとはマイトレーヤーの補助者となり、比丘尼の指導に当たったのである。
こうしたなかで、色白で美男子のヤサにたいする比丘尼の人気は高まり、彼の説法に眼を輝かせ感激する者が多かった。ヤサの話となると、比丘尼はとるものもとりあえず、これに参加した。そして、熱心に聴いた。法を求める反面、壇上で語るヤサの颯爽とした姿に彼女らは陶酔したようであった。
若い比丘たちにとって、比丘尼たちのこうした空気に無関心でいられぬ者もあった。また比丘尼たちの間でも志操堅固なヤサに自分の思いをうちあけることができず、ヤサを心に描きながら、他の比丘を求める傾向も出てきたのであった。
そうした比丘、比丘尼らは托鉢の途次寄り合い、自分たちの時間をつくった。回を重ねるにしたがって、道ならぬ道に堕ち、異性に心を燃やす者も出てきた。
ブッタは若いサロモンの動向を知っていたが、正面切っていましめることをさけた。いずれ時がくれば目をさまし、情動の空しさを知る時期がくるであろうと考えたからであった。
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若い比丘尼の入門が増えたことで、仏陀は、彼女らの修行に対して、さまざまな配慮をされました。
特に、婦女子の出家について、当時の女性が置かれている立場に配慮して、男性に比べて、厳しくしなかったという、仏陀の慈悲の心には、正直、感激しました。
ただし、宿泊や修行方法についての対策は、何とかできるのですが、一切の執着を断つための修行の環境を維持することは、むつかしい問題でした。
男性、特に、若い男性にとって、情欲というか、肉欲から離れることは、一番難しく、至難のことです。
若い比丘と、若い比丘尼がお互いにひかれあい、道ならぬ道におちることは、ごく自然な成り行きであったといえます。