山田征さんの「ふたつの世界の間に立って」(1995年9月10日 初版)の中に、一九八九年三月二十日(月)から、まりあさんの「愛の心、愛の営み」のお話を、ご紹介いたします。
この「愛の心、愛の営み」というテーマは、釈迦をはじめ、多くの聖者が悩んだ問題でもありました。
二つの世界の間に立って 表紙

種の保存という観点から、男と女の愛の営みは、必要不可欠な行為と言えます。
しかしながら、世の中では、男と女の交り、つまり、セックスについて、道徳的な見地から、かなり抑圧されているといえます。
そのことについて、まりあさんが、メッセージを伝えておられます。どのようなメッセージであるか、ご紹介いたします。
 
「ふたつの世界の間に立って」P.113~P.117  
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三月二十日(月)
 さて、私達、霊なる者が、霊なる存在としてあった時といいますのは、いわば姿形なく、と申しましょうか、いわゆる肉体的な固体ではありませんでした。そのこと故に、私達はまことに自然で、自由にこの大蒼に存在し得たものであったことは、前にも述べてあります。
 また、なぜ肉体を有するようになってまいりましたかにつきましても同じことです。その私達、つまり、霊なる存在もまた宿ることになってまいりました人としての肉体といいますものは、もはや神なる息吹の中にて、たんなるイメージや思考のもとに派生し得るものではなく、長い時の流れの進化のはてに変化していったものであったとは、前にも述べてありましょう。
 そのいま在る肉体といいますのは、いわゆる神の意志、思考のもとにイメージされ創られました男と女、いわゆる陰と陽なるふたつの性(さが)の交りによるものであることは、いまさらこと改めて言うまでもないことでありましょう。人も、他の生きもの達も、さまざまな植物群も、まことに、ほとんどすべての新しい生命といいますものは、そのような性の交り、力の働きといった仕組みの中で誕生し、時代を繋ぎ、種を繋いでもまいりました。
 新しい生命の誕生こそは、種の存続のため、決して欠かすことの出来ないプロセスであり、神聖なる出来ごとでもありましょう。それ故に、古来、さまざまな国々の中に残る、神、あるいは仏達の姿の中には、そのこと、つまり性の交りこそが、最高の神技として扱われているものが少なくないのです。いまでも、あなた方が見ることの出来ます、さまざまなる宗教画や仏像の中には、そのことこそが主体となって描かれているものが多くあり、またシンボルともなっておりましょう。それらの中では、男神(おがみ)と女神がいかにも逞しく、おおらかに互いをかき抱き、睦み合う姿が白日のもと、人々の前に置かれている現実があるということです。
 にもかかわらず、ひとつ私達にまつわります宗教、あるいは教えの中にありましては、それら男女の交りのことは、かたく秘められたものとなってしまっているのです。
 それでも、そのような行為なしでは、いわゆる種の存続、人としての歴史が途絶えてしまいます。故に、そのことの為にのみ、男女の交りは許される、とされてまいりました。しかし、そのように閉ざされてしまいますと、逆に人はまたそのことに興味をそそられ、罪として罰せられることを承知の上で、覗き見をせずにはいられませんでしたでしょう。先日来、私達が度々あなたに申し上げていましたことのひとつは、まことにこのことであったということなのです。
 他の動物、生物たちにとってその行為は、まさに種の存続にかかわる最も大切な出来ごとであります。故に、それらの多くの個体が持つ機能のほとんど全ては、その一点にしぼられ仕組まれていると言っても言いすぎではありません。昆虫の世界、そして魚達もみなそうです。なかには、新しい生命の誕生と同時に、この世的な生命を無くしていく生き物達のなんと多くあることでしょうか、よく考えてみて下さると良いのです。
 しかし、人だけはそうではありません。人は、ただたんなる種の存続の為だけにその男女の交りといった行為を行うものではないということ、もはやあなた方には自明のことでありましょう。人は、それぞれに互いの愛を確かめるため、あるいは高めるため、あるいは肉欲的な感情を満足させるためといった、他の生き物にはない感情のもとに、そのような行為に及ぶといいますか、及ばざる得ない何かを、その精神的な要素の中に持っているものです。
 古今東西、いわゆる悟りを得ることを生きる目的とした多くの行者は、いかにしてそのような感情から離脱し得るか、肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中で、どのようにして生を全うし得るか、等と苦労したはずではないでしょうか。なかなか人には、そうたやすく聖人君子とはなり得ないものです。ですから、あのゴーダマ仏陀の悟りの過程にも、そのような苦労話しはしっかりと語られております。
 つまり、それらの欲望からいかにして脱却し得るかが、悟りへの大きな鍵とも言えたのではないでしょうか。その為に、彼フランシス等は、いかばかりの精神的葛藤を経たことでありましょうか……。はたからみますならば、異常なほどに、異性を遠ざけてまいりました。
 美しい乙女をみて心をときめかし、好もしい殿方やご婦人を見て心ひそかに想いをよせることなど、本当は、とても自然で素晴らしい感情の動きとも言えるのですが、今までは、それらをすべて、みだらな感情として、かたく閉ざしてしまったと言えるのです。
 もちろん人の中には、それらのことがらに対し、生来淡白であり無関心な者も多くありましょう。それよりもっと他の事に、より多くの関心があり素晴らしい世界を知っているとも言えますし、すでに卒業してしまったと言えるのかもしれません。しかし、本当に神は、人をそのように、異性に対する愛も知らず、感情の昂まりも知らずにすむようにと創られたのでしょうか。いえ、そうではないと私は考えているのです。
 もちろんこれは、私個人の発言であるとは考えないでいただきたいのです。だからと言って、私達は、人はいかにも性的であれ等と申し上げるつもりはありません。
 そうなのです、たとえそれが、人が人を恋こがれるような愛であれ、神を切に知りたいと思うような聖なる形の愛であれ、その心から熱望してやまない愛の形でありますならば、それらはすべて、素晴しい、いわゆる愛の力となって、あなた方のすべてを包みこんでいくはずではないでしょうか。
 人は、どのような形でありましょうとも、心からの愛に満たされている時こそ、ほんとうに素直で、幸せでいられることと思います。
 あなたには、いつでもあのるしえるが、何もかくさず、てらうこともなく、手放しで大らかに愛の言葉を投げかけているではありませんか。たまに人はそのように、自由におおらかに人を愛し、愛されてみると良いのかもしれませんね。
 あなた方人々に与えられた愛の心、愛の営みは、決してたんなる種の存続のためだけではなく、もっと多くの大切な要素を含んでいる、ということではないでしょうか。    私はまりあ
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以上です。
私は、「心からの愛に満たされている時こそ、ほんとうに素直で、幸せでいられることと思います。」という言葉に、全面的に同意します。
そして、いつでもあのるしえるが、何もかくさず、てらうこともなく、手放しで大らかに愛の言葉を投げかけているではありませんか。たまに人はそのように、自由におおらかに人を愛し、愛されてみると良いのかもしれませんね。という言葉にも、もちろん賛成です。
 
実は、次のような晃月神諭があります。
ひとのひとたるそのわけは
神より生まれ
神にかえるをいうのです。
人の世の
大本というのは夫婦です。
二人揃うて神仰することが
種となります。
神の心ははじめから
人の心に埋めてあります。
神の思いをゆがめるものは、
人の思いや思案してくれ。
(951019)

晃月師は、夫婦で揃って、神を仰ぐ神仰(しんこう)を在家で行うことを、推奨しておられました。

さて、このまりあさんのメッセージで、一番考えさせられるのは、次のところです。この二つは、相いれない要素を持っています。
(1) 古今東西、いわゆる悟りを得ることを生きる目的とした多くの行者は、いかにしてそのような感情から離脱し得るか、肉欲を思わず、清浄なる神的波動の中で、どのようにして生を全うし得るか、等と苦労したはずではないでしょうか。なかなか人には、そうたやすく聖人君子とはなり得ないものです。ですから、あのゴーダマ仏陀の悟りの過程にも、そのような苦労話しはしっかりと語られております。
(2) 人は、ただたんなる種の存続の為だけにその男女の交りといった行為を行うものではないということ、もはやあなた方には自明のことでありましょう。人は、それぞれに互いの愛を確かめるため、あるいは高めるため、あるいは肉欲的な感情を満足させるためといった、他の生き物にはない感情のもとに、そのような行為に及ぶといいますか、及ばざる得ない何かを、その精神的な要素の中に持っているものです。
私の考えなのですが、もしその人が、出家をしているとか、キリスト教の神父さんであれば、当然、(1)の姿勢を貫くべきでしょう。
そうでなければ、私たちは、(2)です。ただ、”カルマの清算“のブログにあるような、「夫婦の問題、男女の愛というか、葛藤」が起きてきた時、どのような気付きを得るかが、問われるのだと思います。
もし、仮に、多くの人々の”カルマの清算”が済んだとしたら、男と女の交りについての抑圧がなくなるのかもしれませんね。