昨晩(3/7)から、また、南富良野のサンタビレッジに、来させていただきました。昨日、名古屋を出てきたときは、駅前で早咲きの桜が咲いていました。 今朝のこちらの気温は、マイナス10度です。朝起きると、Tさんが「ダイアモンドダストが、見られますよ。」とおっしゃいます。
さて、山田征さんの「ふたつの世界の間に立って」(一九九五年九月十日 初版)の中にある、”青い鳥”のお話を、ご紹介させてください。
「ふたつの世界の間に立って」 P.203~P206 ↓===============================================↓ 五月十五日(月) ※昨夜私(征さん)は、あのインドの、まるで手品師のような、いわゆる奇蹟というものをして見せる人のビデオを見ました。山川さんが貸して下さったものでした。いったいあれはなんでしたでしょうか。
はい、良いでしょうか、私達はあなたに、いつの時でも言ってまいりました。私たちのこの世界、この宇宙には、どれほど多くの世界、次元というものがあるかということについてなのです。
確かに彼は、あのビデオテープの中で度々言っていましたように、ひとつの神の化身、神の心、神の力の現れというものを主張し、人々の前に立つことを選択して生まれてきたということでありましょう。彼はあのような形で、多くの人々の前に神の力、神の不思議と言いますものを、まるで手品師のような力を使うことによって表現(あらわ)し、人々の心を全き者、神のかんばせの方に向き直らせていくことを、一つの方法、手段として選んだということですつまり、不思議を見せて神の証明をしてみせる、という最も簡単で人を驚かす方法を選んだということでありましょう。先日の老子の在り方とはずいぶん異った(両極の)在り方ですが、もちろん彼自身も、そのことはよく承知していることと思います。それが彼自身の選択でありますから……。
しかし、よいでしょうか、人々に対して神の存在を知らしめる方法は、そのようなことばかりではありません。
よいでしょうか、私達はこれまで、あなた(征さん)に何を言ってきましたでしょうか。私達がいま、あなたと共になそうとしていますことは、そのような簡単なことではないのです。
あなた方はいま一度(ひとたび)、これらのノートを読み返してみるのが良いとは思わないでしょうか?いま私達が、これまでこのノートを通して伝えてまいりましたことは、全く別なる話でありました。あなた方人々の魂と言いますものは、これまでのとてもとても長い歴史の中で、多くの宗教、あるいは不思議な力を使いこなしてみせるさまざまな指導者たちによって、神とは何であるのか、人とはまた何であり、いかに生きるべきであるのかと教えられ、導かれてもきたはずではありますけれど、これより先は、もはやそのような宗教的な形、あるいは指導者の下から離れ、みな各々に己の魂の自立、独立をはかっていく時であることを、私達は話し、語り続けてまいりました。そのことこそは最も難しい行為であることを、あなた方は特によく知る必要があると思います。
そのように独人(ひとり)で立つと言いますことは、なかなか厳しく出来にくいことであるのかもしれませんけれど、かと言ってあなた方は、いつまでも、まるで小さな幼児のように、大きな力、不思議な力の下(もと)にばかり慕い寄り、何かを言ってもらうことに頼ってばかりいたのでは、本当の意味の大人となり、自立していくことは出来ないのではないかと私達は考えています。
もちろん、その方が楽であり、心地良くもありましょうけれども、あなた方は、自然界にありますさまざまな親子関係と言いますものは、あなた方人間のその関係よりは、はるかに厳しく、また時間的にも早く、あるいは短く、子の独立、親ばなれ、子ばなれといったものがなされてまいります。いつまでもぬくぬくと親の懐(ふとこ)ろの中、翼の下に甘えているわけにはまいりません。
何か不思議(自然ではない)なものを見なければ神の存在を信じられないとしたら、なんと幼いことでしょうか。そのようなものを見なくても、あなた方は立派に生きていくことが出来ますし、また神その者の存在を識ることも出来るはずではないでしょうか。他ならぬあなた方のその存在そのものが、神の不思議であり、存在の証しというものでありましょう。
もちろん、まだこの地球は、さまざまな多くの国々、そして人種的にも分かれているのです。そして、その国々、あるいは人種的な違いによって、その文化、信ずる神々、生きる価値観、その他、とても異なる多くのことがらが在る、と言いますか、存在していることを否むことは出来ません。しかし、それらはだんだんに崩れ去り、変化し、融けあい、地球全体がひとつのものになっていこうとしているのです。もはやそれを、押し止どめることは出来ません。
その意味では、いま、非常なる混乱期をあなた方は迎えている、混乱した価値観の中で生きていると言えるのかもしれません。それ故になをさらのこと、人々は、何か確かな手応えのあるもの、確かに自分を教え導き、手を引いてくれるもの、力強く自信を持って語たる人物を欲し、求めているのかもしれません。しかし、これまでも幾度も申しましたように、それはまたなんという幼さであり、甘えでありましょうか……。あなた方はいまとなってもまだ、自分を支える杖、柱を他に求めようとしているのですか?
さあ、いまこそあなた方は、あの幼い頃に読んだ”青い鳥”、チルチル、ミチルの辿った幸せ捜しのお話を思い出すときではないでしょうか。あなた方にとって、とても大切な幸せと全ての存在は、あなた方自身のすぐ近くに、いえ、あなた自身のその心の中、意識そのものの中にしっかりと在り、存在していることを自覚しなければなりません。 あいしているのですよ まりあ ↑===============================================↑
征さんは、手品のような不思議を見せて、神を証明してみせるパフォーマンスに、興味を惹かれたようです。
まりあさんは、不思議を見せて、神の証明をするパフォーマンスは、初歩的なもので、私達の目指すところとは、そのような簡単なことではないとおっしゃいます。
旧版「光の帯となって」(山田征 著 1991年8月10日 初版)十月十九日(水) P.24に、次のメッセージが出て来ます。
「いまからあなた方が向うべき新しい星、新しい世界のことについてなのです。 この前あのお友達が言っていましたように、どこか他の星から空飛ぶ円盤がやってきてあなた方を乗せていくとか言った、そのような話ではありません。あなた方はすべてその肉体を離れて、あなた方本来の霊的な姿になって、この地球を離れていくのです。それらは、今この地球上に住む人々が一ぺんにと言うことではありません。準備の整った者から次々と飛び立っていくことになりましょう。 …… いえす」
新しい星、新しい世界に、地球の人類を誘うのが、まりあさんや、いえすさんたちが示す、本来の目的なのです。
そして、チルチルミチルの「青い鳥」のお話が、たとえ話として出されます。
「青い鳥」(編集・式守 正久、しきもり まさひさ)から、要約します。
チルチルミチルの前に、あやしげな老婆があらわれ、ふたりに青い鳥を探してくれと頼みます。 なんでも、そのお婆さんにはひどく病気の娘がいて、青い鳥が見つかればその娘さんが幸福になるというのです。 ふたりは、娘さんの病気を治してあげたい一心で、青い鳥を捜すために、出掛けるのです。
(途中で、いろいろな出来ごとに出会い、二人は冒険をすることになります。)
結局、青い鳥を見つけることが出来ず、家に戻ると、老婆は、チルチルが前から飼っていた鳥をほしがります。 それは青くもなんともない一羽の鳩。 でもふしぎなことに、その鳩をよく見ると旅に出る前よりずっと青くなっているではありませんか。 こうしてチルチルとミチルは、幸福とは気がつかないだけで、ごく身の回りに潜んでいるもの。 しかも自分のためだけでなく、他人のために求めるとき、それははかりしれなく大きくなることを知ったのです。
チルチルミチルの”青い鳥”探しの冒険は、人の人生、そのものと言っても良いでしょう。 幸福とは、気がつかないだけで、自分の身近なところ、ごく身の回りに潜んでいるもの。 そして、幸福を自分のために求めるのではなく、他人のために求める時、幸福ははかしれないほど、おおきくなるということも、二人は知りました。
これが、まりあさんがおっしゃりたいことだと思うのです。 そして、インドの行者のビデオより、私達のノートを読み返してみるのが良いのでは?
実は、明日、釧路で催される、山田征さんの「光の帯となって」出版記念 お話会 に参加させていただく予定です。楽しみです。札幌もあるようです。
釧路 3月9日(土)時間 10:00~12:00 釧路市民活動センターわっと 釧路市末広町3-1