「性人」について

在りし日の晃月師 晃月神諭

今の室温は、24度で、暑くなく、ちょっと蒸しますが、過ごしやすような一日の始りです。
今朝、いつもの神社で、Tさんと比叡山に行く段取りを相談しました。楽しみです。

在りし日の晃月師

在りし日の晃月師

さて、「性人」というと、少し変なイメージの言葉に聞こえるかもしれません。
昨日(6/4)のブログ「せいじんの道」に出てくる「性人」とは、「本能のままに生きる人」というニュアンスになります。しかし、本能とは、性欲というより、エゴのままとという、意味に捉えていただければ、近いと思います。

しばしば、親の信じる宗教であったり、道徳を、自分の子供に、幼いうちから、学ばせることが、望ましいことであると、大人は考えがちです。

しかし、晃月師は、幼い子供のうちから、宗教や道徳を学ばせることについて、否定的でした。その子が望めば別ですが、そうでなければ、学ばせる必要はない、学ばせない方がよいという立場を取っておられました。

それが、子供の「性人」としての在り方ということになります。
つまり、その子が本能のまま、思うがままにしたいことをさせて、親は黙って見守り、できるだけその子がやりたいことができる環境を、整えてあげるのを良しとします。

私が、小学生の頃は、学校が終わると外に出て遊ぶことが当たり前でした。「雑草の如く」という生活をさせtもらえました。
今は、交通事故であったり、不審者のリスクがあるため、子供は家でゲームなどで遊ぶことが多いようです。

晃月師のお祈り場では、多くの人たちが、お祈りに集まってきていました。中には、子供連れや、家族連れで来られておられましたが、子供たちは大人とは別扱いでした。

幼児は、別室で母親や他の幼児たちと、遊んですごしていました。小学生以上の子供たちは、お祈りには参加しないで、外で遊んでいました。

私も息子と一緒に行くことが、しばしばありましたが、お祈りを強制させることはなく、本人の好きにさせていました。
それが、晃月師の方針でした。
「親の宗教を子供が判断能力を持たないうちから、学ばせることは、大人になってから、返って悪い影響が出る。」と、晃月師はおっしゃっておられました。

非常に厳格な教育者、宗教家の子供が、大人になるに及んで、問題を起こすということは、私たちは経験的に知っています。

最近、そのような若い女性を見かけました。
彼女は、母親に連れられて、一家そろって、ある宗教団体に、毎月のように通っておられたそうです。

母親がリーダーとなって、一家でその宗教を信仰していたようです。
母親に引っ張られるようにして、父親も二人の姉弟も、その教団に通っておられたようです。

しかし、2年ほど前に、母親が亡くなられたそうです。
しばらくすると、姉さんは仕事を辞めてしまい、今は夜と昼が完全に逆転した生活をするようになり、仕事に行けなくなってしまったのです。

私が、宗教団体に通っていた理由を、彼女に質問をすると、「自分は嫌だったけれど、母が行くというので、仕方なく付き合っていた。」と、おっしゃいます。
その宗教団体は、今は亡くなられているのですが、立派な宗教的指導者によって、創られた宗教団体です。しかしながら、彼女にはその教えは、少しも実にならなかったようです。
今は、引きこもり生活をされておられます。

子供時代から、青春時代に掛けて、自分のやりたいことが、なかなかやらせてもらえなかったことが、そのような結果になったように見受けられました。 子どもの将来は、親が決めるわけではありません。
最近、将棋界に、天才的な棋士、藤井総七段が現れました。 彼の母親は、彼が子供の頃、出来るだけ彼がしたいように、自由にさせてあげていたことが、話題になっていました。
本人の意向を尊重する育て方が、一番よい教育です。
ただし、晃月師は、「15歳までに子供が起こした問題の責任は、すべて親にある。」ということを、常々、おっしゃっておられました。 そのことは、親はくれぐれも、よく肝に銘じておく必要があると思います。
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