人、霊止(ひと)、日止(ひと)

松川晃月のポートレート スピリチュアル

今日(6/7)は、朝から雨が降っています。そろそろ、梅雨に入る時節になってきました。
今年(2019年)、5月26日に、北海道の帯広で37.9度という、北海道史上最高の信じられない、記録的猛暑が観測されました。
北海道は、梅雨がないと言われていましたが、最近hあ、よく雨が降るようになりました。
この天候不順も、お神からの「目覚めよ」というメッセージなのでしょうか。

さて、先日、「せいじんの道」というブログの中で、性人→正人→成人→誠人→誠人といった段階を通って、人間の魂が成長していくという話をさせていただきました。

松川晃月のポートレート

在りし日の松川晃月師 修達会の修身(20kmランニング)にて 2006年11月3日

晃月神諭には、もう一つ、人間の成長のステップを表す言葉があります。

それが、人間から人へ、そして人から霊止(ひと)へ、さらに霊止から日止(ひと)へという言葉で表される魂の成長のプロセスです。

人間というのは、人の間と漢字で表します。晃月師は、次のように、良くおっしゃっておられました。

「人と人の間を右往左往する人間になってはいけない。
 自分という基準がなく、人の言葉に影響されて、人と人の間で右往左往するのが、人間である。」

その時の立場や、相手によって、態度が横柄になったり、ペコペコする人をしばしば見かけます。
自分の意見を持たずに、状況によってころころと態度を変えるような人が、人間ということになります。

人間の次の段階は、人になります。

人という漢字は、短い線が長い線のつっかい棒のような形で表現されています。

「小さな人が、大きな人を支えている。自分より、大きな人を支えるのが人である。」

この大きな人を支えて生きるというのは、立派な生き方です。

そして、次の段階は、霊が止まると書いて、霊止(ひと)と読みます。 昔、大本教の出口王仁三郎師は、人とは、神の霊が止まる神柱である「霊止(ヒト)」であるとおっしゃいました。その霊止(ひと)のことです。
霊止とは、霊が止まった人、つまり自分が霊であることを、覚醒している人です。
生まれてくる前の前世の記憶を覚えている子供も含め、それに目覚めた人たちは、この霊止に当たります。 GLA関西本部のような宗教団体で、自分の過去世を思い出して、心の窓を開いている方たちも、霊止になります。 私自身も、二十歳のころ、GLAを創立された高橋信次先生と出会わせていただきました。その時、自分自身がお釈迦様の時代のインドに生まれていたことに、目覚めました。
このハッピーネットという、スピリチュアルをテーマとしたブログは、自分自身が永遠の生命を持つ魂であるという自覚が、出発点です。その前提で、この一度きりの人生を、どのように生きたらよいのか、ということがテーマなのです。
科学文明の現代社会にあっても、魂に目覚めた人たちは数多く存在します。 大多数の人たちが、「そんなバカな!」と、その事実を否定したとしても、永遠の生命に目覚めた人たちは、自らを否定しようがないのです。
最後の日が止まると書く日止(ひと)は、お日様のような後光が射している人のことを言います。
古くから、菩薩や如来の仏像は、光背という後光を背負った形で、表現されています。 特に、如来は、非常に大きな後光を背負っています。それだけ、心が広いのです。如来は、一つの宇宙といっても良いです。
イエスキリストや、釈迦などのアセンデッドマスターは、この日止に当たります。
昨日、「『聖人』について」とというブログで、説明させていただいた「聖人」も、この「日止」と同じ、神に最も近い最高の段階の人です。
さらなる高みのヒトを目指して、精進していきましょう。
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