母親が脳梗塞で倒れたのは、2015年8月30日でした。
朝起きると、母親の様子かがおかしく、気分が悪いので、起きないでもう少し寝ると言います。
母の遺影

母の遺影と、私の神棚

「じゃあ、ゆっくり休んだら。」と言って、私は近くの河川敷に、日課だったサイクリングに出かけました。

戻ってくると、母親の言葉のろれつが回りません。

「脳梗塞だ。」と、直感して、八事の赤十字病院に連れて行ったら、即入院でした。

その1か月後に、私は会社の経営から退く決意をして、母の介護を始めたのですが、その2年後の2017年5月に、帰らぬ人となりました。

母は、どちらかというと、無信心、無信仰な人でした。

初詣や、八事の興正寺へのお参りは、一般的な習慣というか、友人との付き合いのために、行くのであって、神に何かを願うために行くわけではありませんでした。

随分前に、旅行に出かけた途中で、病気にかかり、名古屋に戻ってきたことがありました。

2,3日ベッドに横になっていたので、晃月師に母親の病を治したいと、願い出ました。

晃月師は、右手の人差し指をピストルのように、突き出して、人差し指の先端で、病気の患部を突くようにと、おっしゃいました。

家に帰って、いわれたように、母の脇腹に指を軽く突きました。

すると、あっけなく病気は治ってしまいました。

本来なら、お神に感謝をするところなのですが、母は、「丁度、治るタイミングだったんだわ。」と言って、お神が働いて、病気が治ったと、認めることはありませんでした。

脳梗塞になり、病院での闘病生活が始まりました。

元々、その3年前に、乳がんを患っていて、既に、肺とリンパに転移しており、ステージ4でした。
そこに、脳梗塞、脳出血、大腿骨骨折、大腸がんが追い打ちを掛けました。

母は、「どうして、私ばっかり、こんなに次々と大病を患うのだろうか?」といつも、嘆いていました。

しかし、この世を去る、1か月ほど前から、何故か、何かしてもらうと、必ず「ありがとう!」という言葉を、言うようになりました。
弟が、「そう、ありがとう、ありがとうと、言わんでもいいがー。」というほどでした。

母の死は、いまでいう「ピンピンコロリ」でした。死の前日の夜まで、普通に孫と話をしていました。
周りの人たちに、少しでも迷惑が掛からないようにと、母が配慮していたからかもしれません。

葬式は、近い親戚と、家族だけの密葬でした。母の友人には、声を掛けないように言われました。同世代で、大病を患っているような老人の方々に、葬式に来ていただくのが、気の毒だと思ったのでしょう。

死後硬直は、全くありませんでした。納棺前の湯灌(ゆかん)の時も、筋肉が弛緩していて、手がだらんとしていました。

母を湯灌しているところ

母を湯灌(ゆかん)しているところ

晃月師から、教えていただいたことですが、硬直するのは、死への恐怖によるもので、恐怖がなければ、コゴミがないと。

2016年に、父の年祭をさせていただいていたので、母の昇天祈年祭をさせていただくことになりました。

昇天祈年祭で、御霊(みたま)移しといって、死者の御霊を霊璽(れいじ)にうつす神事を行います。

その時、いつもお神の言葉を取り次ぐ、Iさんが同席されていたので、亡くなった母の言葉を聞くことができました。

母は、とても明るい暖かい場所にいるとのことでした。
「ここにこれたのは、裕司さんのお陰だ。」

と、言います。「裕司さん」という呼び方は、めったにしない母だったので、少し驚きました。

「お迎えは、誰だった? 克己(母の夫)さん、それとも、保郎(母の父)さん?」と聞くと、

「違う。白い着物を着た方。多分、あなたの先生だと思う。」と答えます。

何と、母は晃月師に守られていたのでした。ありがたいことです。

そして、私が導師として、十三神之祈りを捧げているときに、観音の段の祈りのところで、Iさんに降りてきた、母は私の方に、小さく手を振って、観音様の檀の方からあがって、昇天していったのでした。

晃月師が師の昇天祈年祭で、観音様の檀から、昇天されたように、母が昇天していったことに、またまた、びっくりしました。

これで、母が神元へ出直しした、つまり、成仏(アセンション)できたことを確信しました。

母は、「死んだら、すべてが無くなる。」という人で、神に頼るということが一切ない人でした。
亡くなる前には、お見舞いに来てくれた方々や、病院の方たちに、だれかれとなく、「ありがとう」といい、感謝の気持ちで、この世を去っていきました。
その在り方が、お神の想いに添っていたのだと改めて思いました。
母は、特別な信仰をする必要はなかったんですね。