マスターの境地とは、次のようであると、サナンダさんは、ブログ「サナンダ~真実があなたを解放する~ その5」において、おっしゃいます。
サナンダ 真実があなたを開放する パート4
「マスターとは、世界中のほとんどが強く条件づけられている反応の仕方と、同じようには反応しません。マスターは容易に、恐れの方ではなく/愛の方を、怒りではなく/思いやりの方を、復讐ではなく/理解の方の反応を見事に選択する事ができ;いつも思考、身体、魂を平穏に保つ事ができます。」
 
これだけでは、マスターという存在が、どのような境地であるか、理解しにくいのではないかと思いました。
 
私は、このマスターという存在は、仏教の「如来」のことだと思います。
 
マスター、つまり、如来とは、どんな存在なのでしょうか?
 
それを理解するために、高橋信次先生の「己心の魔」という時の言葉(GLA誌 1975年6月号)から、少し引用させてください。
在りし日の信次先生

在りし日の信次先生

時の言葉 「己心の魔」(GLA誌 1975年6月号)より抜粋
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 人の心は天国と地獄に通じている。これを別な言葉でいうと、心は自由だということである。どちらにも通ずる。地獄の不調和な心の働きや行為をすれば地獄に、天国を思えば天国に、しかし、一方交通で地獄のみに通じ、天国に通じることが少ないと心は不自由になる。天国に通じてこそ、私たちの心は明るく、正しく、生きられる。偽我は地獄に、善我は天国にである。しかし、この両面をさらに超えると、真我の境地に達し、人の心は真の自由を得ることになる。仏教でいう如来の境地である。ここに至ると、魔に己の心をゆだねることはない。魔に悩まされることもない。それはカルマの緊縛を離れているからである。心がカルマに揺れる間は、魔は常に背中合わせについてまわる。つまり、光にたいする陰である。真我に至ると、陰があるようで蔭はない。肉体があるようで肉体はない。肉体とは、心を光とすれば陰のようなもので、肉体に心はほんろうされることはないので、光があっても蔭はないということなのだ。ところが通常は、光と陰がついてまわる。そして、偽我の心の中には魔が常に伏在するということになる。これを別な言葉でいうと、己心の魔という。己の心の魔である。
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上の文章は、40年以上前に、信次先生によって、執筆されたものです。
如来の境地に至ると、次のようなことが起こります。
「魔に己の心をゆだねることはない。魔に悩まされることもない。それはカルマの緊縛を離れているからである。」
「陰があるようで蔭はない。肉体があるようで肉体はない。肉体とは、心を光とすれば陰のようなもので、肉体に心はほんろうされることはないので、光があっても蔭はないということなのだ。」
初めて、この文章を読ませていただいた時、正直なところ、理解ができませんでした。
今、ここで振り返って、考えて見ると、次の意味に受け取れます。
 
如来はカルマ(業)から解脱しているので、魔に悩まされることはない。
如来(真我)の境地に至ると、肉体を持っていても、肉体に煩わされることがないので、肉体という陰にまどわされることがなくなる。
更に、「偽我」、「地獄」、「善我」、「天国」という言葉については、次の意味に受け取れます。
「偽我」とは、「ネガティブな自分」です。
「地獄」とは、「悲しみと困難な世界」のことです。
一方、「善我」とは、「ポジティブな自分」です。
「天国」とは、「穏やかで安らぎの世界」のことです。
このように、受け取ると、人間は、「穏やかで安らぎの世界」を選ぶことも、「悲しみと困難な世界」を選ぶことも自由にできる存在といえます。
そして、人間は、「ポジティブな自分=善我」である「穏やかで安らぎの世界=天国」と、「ネガティブな自分=偽我」である「悲しみと困難な世界=地獄」との間を揺れ動く存在ということになります。
如来(マスター)の境地に至るには、心の中にある「己心の魔」=「偽我(ネガティブな自分)」から、完全に解脱する(離れる)必要があります。
その一つの鍵は、逆説的ですが、「闇を受けいれる」ということです。
「偽我(ネガティブな自分)」のお陰で「善我(ポジティブな自分)」の存在を知ることができます。
その観点から、「偽我(ネガティブな自分)」の存在を忌み嫌うだけでなく、その存在そのものに感謝することが、マスターの境地に至る必要条件だと思われます。
このアセンションのプロセスの中で精進して、マスター(如来)を目指していきましょう。