神一条であること

松川晃月のポートレート スピリチュアル
今日は、端午の節句です。とても良い天気に恵まれました。庭のバラも、盛りです。
庭のバラの花
本来、神さまは一人、真理は一つです。
ただ、宗教はそれが始まった場所、時代、民族の違いなどによって、あたかも、別の神さま、別の教えのようになってしまいました。
しかし、大元は一つです。
在りし日の松川晃月師

在りし日の松川晃月師

どの宗教も、スピリチュアルも、大元の神さまに、通じているのであれば、全て、OKなのです。
松川晃月師は、そのことを、「神一条」と表現されました。
「神一条であれば、どのような信仰であっても良い。  入り口は、神道でも、仏教でも、キリスト教でも良い。  その人の信じるところが、大元の神に通じているのであれば、それで良い。」

 

と、よくおっしゃっておられました。
その意味するところは、ある人が祈りの対象としている神があるとします。
たとえ、その祈りの対象の神が、下々の神であったとしても、その神の上に、神がおられます。
さらに、その上にも、神がおられるという形で、どんどん神の次元が上がっていきます。
最終的には、大元の神にたどり着く神仰であるならば、それは「神一条」なのです。

仏陀は、バラモン教の修行者から、「帰依したい」という申し出があった場合、無条件に、入門を許可されたわけではありませんでした。
バラモン教に止まりながら、仏陀の説く法(タルマ)を学ぶ方が良い場合があれば、その信仰を続けるように、薦めました。
 
日本は、八百万の神々の国と言われます。
明治政府が、慶應四年に、神仏分離令を出す前、江戸時代には、神社の神さまも、お寺の仏さまも、同じでした。
例えば、京都の鞍馬寺と貴船神社がそうであるように、お寺と神社はセットになって、存在していました。
神仏習合の立場から、天照大神と、大日如来とは、同じ神様だと捉えられていました。
日本人は、どの宗教の神も尊重する、宗教に非常に寛容な民族です。
 
私は、毎日、お祈りする時に、必ず、次の言葉を奏上しています。
 
「親神・天之大神様におかれましては、本日も誠に良き日をいただき、誠にありがとうございます。  本日も、神一条に、精進を続けさせていただきますよう、よろしく御願い申し上げます。」
 
祈る対象が、仏教の仏さまでも、神道の神様でも、天使でも、たとえ宇宙の神様であったとしても、全て、大元の神様に、神一条に繋がっています。そうした神々と繋がって、精進できますようにと、お願いをしているのです。
一種の良いとこ取りかもしれませんが。
 
今という時代、大いなる全て、大元の神が、チャネラーなど、様々な人々を介して、メッセージを送り、語りかけている時代です。
自分自身が、自分に合うメンター(生きる道を示す師匠)を選ぶ時代であるとも言えます。
 
ただし、中には、神の名を騙る、偽物の神様もいないわけではありません。
自分自身が、審神者(さにわ)となって、本物の神か、偽物の神か、見分ける見識は必要です。
 
自分の信じている宗教、神を、絶対と考えて、それ以外は、全て邪教であるとするような信仰を、盲信・狂信と言います。高橋信次先生は、この盲信・狂信を、常々、戒めておられました。
 
神も仏も同じ事といい、クリスマスも祝う、日本人の国民性は、とても健全なことだと思います。
自分の信じる神・信仰を、絶対視すると、他の宗教に対する寛容さを失ってしまいます。 他の宗教の人たちに対しても、その宗教の良いところを見て、敬意を持って接したいものです。 どのような信念を持つ人たちに対しても、心を開いて、寛容であり、謙虚でありたいと思います。 今、2020年という時は、宗教を超えて寛容であることが、求められていると思います。
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