今日(11/15)は、先日(11/13)アップしたブログ「高橋信次先生の『新・復活』その17 1976年4月11日大講堂講演1」の続きです。
この講演会は、1976年4月11日に、両国の日大講堂で行われました。
高橋信次先生、晩年のご講演です。
「新・復活」その18 1976年4月11日大講堂講演2
講演は始まった。
「人生はなぜ盲目になってしまったのだろうか。 なぜ明日のことも分からぬまま、今苦悩し、今楽しみ、今悲しんで生きているのだろうか。 人間は何のために生まれ、何の目的を持ち、どんな使命を持って生きているのでしょうか。 そして死後の世界は存在するのだろうか。 此の世限りの人生なのでしょうか。
仏教もキリスト教も化石化して、既に真実もその中から知ることはむつかしくなってしまった。 余りにも長い歴史のちりとほこりが、真実をおおってしまったのである。 その時から人間は、心を失い物質や経済の奴隷になりさがり、欲望の渦の中にまき込まれて自分自身を忘れてしまったのである。
みな様は、肉体そのものを自分自身だと錯覚をおこしている。 若しみな様の肉体が自分自身のものであるならば、何故自分自身で自分の肉体を完全に支配できないのでしょうか。 なぜ病気をするのです。何故老化するのですか。 なぜ死んでしまうのですか。 肉体は、みな様が此の地上界に生まれて来る前に、今の両親になられているお父さんお母さんに、肉体舟の提供を頼んで来たのです。 両親が勝手に造ったのではないのです。 天上の世界において、お互いに約束されて、人生航路の乗り舟を戴いたのです。 この地上界の総ての物質は、変化します。 永遠に保存することは出来ません。 肉体も幼児のまま停止することは出来ないものです。 成長します。 少年少女から青年期へ、更に壮年期から初老へと老化して行きます。 何人もこの法則を破ることは不可能なのです。 形ちあるものは変化します。 総てが無常です。 その無常なものにとらわれて人間は苦しんでいるのです。」
以上、です。
人生はなぜ盲目になってしまったのだろうか。
これは、人生に対する根本的な問いです。
私たちは、人生とはどんな目的があって、自分は何のために生きているか答えらなくなってしまいました。
此の世限りの人生なのでしょうか。
この問いに、この世限りの人生ではないと、即座に断言いたします。
なぜならば、過去世の言葉が口をついて出てくるからです。
この事実を否定することはできません。
仏教もキリスト教も化石化して、既に真実もその中から知ることはむつかしくなってしまった。
確かに、現在の仏教、キリスト教を学ぼうとすると、大元の根本的な問題に対する回答が得られません。
例えば、仏教の僧侶は、あの世があると断言はされません。
なぜなら、僧侶であっても、あの世があるかどうか、分からないからです。
それと同じように、キリスト教の神父・牧師の方たちも、キリストが奇跡を起こしたことを、断言できる方は少ないでしょう。
みな様は、肉体そのものを自分自身だと錯覚をおこしている。
現代の常識では、心は脳の働きの一部であり、霊とか魂というものの存在は認められていません。
つまり、目に見える世界と、肉体だけが存在するという考え方です。
感覚的に、それで全てを、説明できると錯覚しています。
肉体は、みな様が此の地上界に生まれて来る前に、今の両親になられているお父さんお母さんに、肉体舟の提供を頼んで来たのです。
最近、生まれてくる子供の中には、前世の記憶を持って生まれてくる子供も、多く存在します。
しかし、両親から否定的な言葉を投げかけられて、いつの間にかその記憶を失ってしまう子供も、多いようです。
天上の世界において、お互いに約束されて、人生航路の乗り舟を戴いたのです。
肉体とは、人生行路の乗り舟として、天上の世界で両親との約束の上で、いただくものです。
それゆえに、この世(三次元世界)での人生修行のための乗り舟であるということです。
この地上界の総ての物質は、変化します。
どんなに望んでも、若さを保つことはできません。
死はいずれ訪れます。
肉体に限らず、家にしても、車にしても、形あるものは、変化をしていずれは形を失います。
その無常なものにとらわれて人間は苦しんでいるのです。
人間は、若さに関わらず、地位、名誉、財産等、という無常なものにとらわれて苦しんでいます。