毎月、28日は黒川家之祈りの日です。昨日、1月28日は、定められし日により、お祈りを奉献させていただきました。
あいにく、朝から、曇り空で雨が降りそうな気配でした。

神飾り

お祈りの始めに、家の中を清めるため、浄めの拍子木(ヒシギ)を打ってまわるのですが、家の屋上に上がったとき、パラパラと雨が降ってきました。
軽い雨の場合は、お浄めの雨と、晃月師からは教えていたのであまり気になりません。

ただし、こういう時は、何か反省すべきことがあるので、自分を振り返ることにしています。

お祈りの所作と、神名を唱える順序を、若干、間違えてしまい、来月は間違えないようにしようと思いました。

お祈りが終わって、少したったら、南の空から晴れあがってきました。

それを見て、「ああ、お神が祈りを受け取ってくれた。お神が喜んでくれているなぁ。」と、ホッとしました。

この黒川家之祈りは、2015年12月27日に、松川晃月師から、直接、授けていただきました。

祈りの日時は、毎月、28日午後1時からで、神棚での観音様や、榊や、鈴(リン)の配置など、細かくご指示をいただきました。

鈴の位置は、通常、向かって右に置く方が、鳴らすのに都合が良いのですが、晃月師からは左とはっきり指示されました。観音様の段では、観音の鈴を鳴らすようにと言うことでした。

晃月師の最期について、少しお話しさせていただきます。

2016年1月25日早朝に、遺言のようなものは特に残さず、ご家族が気付かないうちに、静かに息を引き取られたそうです。

晃月の出直し(死)を、知らされなかった方たちが多かったので、晃月の想い、真意があまり伝わらずにきてしまいました。

出直しの50日後に、晃月師の昇天祈年祭が執り行われました。

松川晃月師の昇天祈年祭 2016年3月

松川晃月師の昇天祈年祭 2016年3月

写真は、その時の様子を写したものです。

このとき、写真の左端の白衣を着た方に、晃月師が降りてきて、お祈りをしている人達に、何度も何度も、大きく手を振られました。その間、5分から10分くらいだったでしょうか。かなり、長く感じられました。

この昇天祈年祭の時も、晃月師のお言葉らしいものは、発表されませんでした。

このとき、皆に何回も手を振られて、神棚の一番左にあった観音の檀のところから、くぐるように、昇天していかれたそうです。
私の目には、何も、視えませんでしたが。

その後、お祈りの時に、Iさんに、晃月師のメッセージが降りてくるようになりました。それまでは、そのような事は一切なかったのですが。

晃月師は、毎月ではないですが、月例祭のお祈りの中で、しばしば、Iさんに降りてこられて、お話しされるようになりました。

以下の言葉は、2017年9月1日の月例祭で、Iさんを通していただいたものです。言葉の訛りや調子で、晃月師と思われるメッセージを抜き出しました。

(お祈りの日時、つまり、神によって、月に一度のお祈りの日を、つまり、定められし日にち、時間を、自分の都合で変更しようとした人が、降りてこられた晃月師から、お叱りを受けました。)

↓===============================================↓
何のために(お祈り)してんのや。
何のために、(月例祭に)きたんや。何のために、みんな今まで(お祈りして)きたんや。
何でな、そんな、しょうもないな、神さんの時間、神さんの時間、そんなもん、(定められた月に一度のお祈りの日時を)取り間違ごうてどないするんや。
神さん、みんなに平等に(祈る時間を)与えている。
それをな、人の知恵だけで、時間違ごうて、日違ごうてどうする。
何事もやりきる、ということが大切や。えー、ちゃうんか。
神さんは、大神さんはなぁ、みんながこれ以上つぶれるというところまでは、絶対もってきはれへん。
必ず、神さんの時間というもので、神は測るんや。
人の、人の時間。な、そんなんな、神さんごと、するということだったらな、何にも神さんごとの資格なんかだれにもない。(つまり、十三神之祈りとは言えない)
……考えてみぃ。
今自分が思っていることが、神さんのことにそうているのか。考えてみい。(自分の思いが、お神の想いに添っているか考えなさい)
どうすんのや。
はがい、はがい、はがい、はがい、はがい、....(大声で)(はがゆい)
そんなけや、もうなんもいわへん。
もうこんなけですよ。
大神はな、ほんまには怒らへん。大神が怒ったらな、地球なんかはなくなるは。
わしが代わりに怒ったんや。
まだ今地球がなくなったら、こまるやろ、な。
大神は、よう考えよ、よう考えよ、と言ってくれてはるけど。
誰も考えてへんから。(語気強く)
で、わしが怒ったんや。
なんもいうたないんや、ほんまは。
笑ろて、暮らしたい。
私の願いは、ここにいかしてもろて。
私の願い、私の願い、私の願いはな。みーんなの(お祈りの)声がちゃーんと(定められた時間に)聞こえてくることやったんや。
それが、ここに来て。
けど、神さんのことがようわかってないものが、出てきたんや。な、な。
ちゃんと、ちゃんと神さん見据えて、生活せなあかんのやないか。
また、私に気持ちいーい時間を過ごさせてください。
ずーっと、気持ちよう。
​↑===============================================↑

神から与えられた時間を、ないがしろにして、自分の仕事や生活を優先するのであれば、それは神ごととは言えない、言語道断ということなのでしょう。
そこに集まっている方々にも、他人ごとではなく、その方を叱っているようで、同じ言葉が皆に向けられているのです。

毎月1日の正午の月例祭に、ここのお祈り場にわざわざ足を運んで、お祈りするのは、いったい何のためか。
人間としての生活より、月例祭の月に一度のお祈りが大切だと、思っているのではないですか。ここまでやってくる理由を、もう一度よく考えなさい。

メッセージの中の「私の願いは、みんなの声がちゃんと聞こえてくることだったんや。」という言葉の意味するところは、晃月師がこの世を去った後でも、自分のところに、みんなのお祈りの声が聞こえてくるのが、「私の願い」だと思われるのです。

晃月師が、神元に出直されて、3年が経ちました。お祈りが風化しているのかもしれません。
もちろん、神の時間、神の日にちを、取り間違えることなく、お祈りをされている方々も多いと思います。
「ちゃんと、ちゃんと神さん見据えて、生活せなあかんのやないか。
 また、私に気持ちいーい時間を過ごさせてください。
 ずーっと、気持ちよう。」
この晃月師の言葉は、もっとお祈りをして欲しいと、訴えているように聞こえます。