久しぶりに、ハッピーネットのサイトのお問い合わせから、ある方のコメントが届きました。
10年ほど前、晃月先生がご縁で、この方とお会いしました。
松川晃月のポートレート

在りし日の松川晃月師 修達会の修身(20kmランニング)にて 2006年11月3日

そのコメントを、ご紹介させていただきます。

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(晃月先生)との縁によって意識や考え方が、あるべき方向へ転換できたのは人生で最も重要なイベントだったと思います。
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日々、祈りと言えない御挨拶程度しかできていない私が言うのはおこがましいのですが、究極的には「祈り(意乗り)」は場所時間問わず、独り、身一つで行えるし、行うべきものでもあると思います。
以前こうあるべきと思いました―― 信仰→神仰→そして神向、仰ぐだけではなく一歩ずつで良いから自分の足で神に近づくような生活を日々送ること。目に見える一般的な祈りよりも日々の生活の中での意乗り――困ってる人を助ける、周囲の人に思いやりや配慮をなす、迷惑をかけない、何でもない日常の全てに感謝して生きる。そうしたことがお神の「意に乗る」真の神向生活ではないだろうかと。特別な使命を受けた人は神さんごとを第一にしなければいけないでしょうけど。
だから、世間で言う目に見える信仰をしていなくても、生き方そのものが意乗りなら成功なのだと思います。黒川さんのお母さんは、そうだったのでしょうね。
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いわゆる「信仰」をしていなかった私の母の生き方に、共鳴していただいたようです。

一歩ずつで良いから自分の足で神に近づくような生活を日々送ること。目に見える一般的な祈りよりも日々の生活の中での意乗り――困ってる人を助ける、周囲の人に思いやりや配慮をなす、迷惑をかけない、何でもない日常の全てに感謝して生きる。そうしたことがお神の『意に乗る』真の神向生活ではないだろうかと。」とは、本当におっしゃる通りです。
お神の『意に乗る』真の神向生活」って、実に良い言葉ですね。
この方は、本当のライトワーカーさんですね。この「神向生活」を、スピリチュアル風に言いかえるとしたら、「自分のハイヤーセルフと向き合いながら生活する」ということになるでしょうか。

人には、それぞれの信じているものがあると思います。
私の母のような無信心という人であっても、例えば、自分自身であったり、何かを信じていると思うのです。

晃月師には、キリスト教でも、仏教でも、どんな宗教でも構わないと教えられてきました。それが、晃月師がおっしゃっる神一条であれば。

神一条とは、最終的に大元の神に、その祈りが届いていることを意味します。

そして、教祖の言葉、人の言ったことを鵜呑みにして仰ぐ「信仰」ではなく、この方のように、自分の心の中のお神を仰ぐ「神仰」であれば素晴らしいことです。

「特別な使命を受けた人は神さんごとを第一にしなければいけないでしょうけど。」

私は、生まれる前に、お神とこの「十三神之祈り」を実践すると、約束してきたと思っていますので、黒川家之祈り、日々の祈りを、一人で続けてきました。
これをやめてしまうと、お神との約束を破ることになってしまします。

十三神之祈り」とは、祈りたいという方、つまり祭主が願い出ることで、晃月師からお神に取り次いでいただき、お神との約束の上で、与えられるものでした。
(注、祭主とはそのお祈り場の責任者を指します。)

私の願い」では、次のように書かせていただきました。

「晃月師が、神元に出直されて、3年が経ちました。お祈りが風化しているのかもしれません。」

この方のコメントを見ると、少しもお祈りが風化しているわけではありませんでしたね。失礼いたしました。
晃月師から教えられた「神仰」を、お忘れにならず、「お神の『意に乗る』真の神向生活」として、実践されていることを知り、とてもびっくりしました。そして、本当に嬉しかったです。
晃月先生は、あの世に戻られて、人とお神をつなぐ働きをされていると、お聞きしております。
この方の生き方を、サポートされていることは間違いないと思います。