啐啄同時(そったくどうじ)

天の川 スピリチュアル

啐啄同時(そったくどうじ)とは、中国の仏教書である『碧巖録:ヘキガンロク』の七則に出てくる言葉だそうです。
【啐啄】は、禅宗において、今まさに、悟りを得ようとしている弟子に、師匠がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことをいいます。
【啐啄同時】は、何かをするのに絶好のタイミングを表す四字熟語になりました。

天の川

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山田征さんのご本、「吹く風もまた私である」に出てくるお話で、「あたらしい緑とは?」のブログの続きになります。

このお話は、今や、地球の人類が、もう少しのところで、悟り(つまり、アセンション)に到達するところまで来ていて、まさに教えを受けて、悟りを得ようとしている状況を表現しています。

P.291 – 292 あたらしい緑、あたらしい生命、緑の蝉のお話 ↓===============================================↓  人間の魂そのものは、地球外の天の者ということが出来ます。人間の魂は本来、地球の外からやってきました。そして人は、いえ人類は、この閉ざされた地球の上で長い年月をかけて、人として魂として成長していくようにと仕組まれてまいりました。  蝉は地の中で七回脱皮すると言われています。いえそれ以前に親蝉は立木の樹皮に卵を産みつけ、卵からかえった小さな幼虫は木をつたって自ら地の中に入ってまいります。そしてその地の中で一年に一回づつ脱皮しながら次第に大きく育ち、七回の脱皮、七年の年月の後のある夏の日、暗い地下から明るい地上へと這い出てきて、切り開かれた背中の隙き間から外に出てまいります。まる一昼夜もする頃には、まだ弱々しかった緑の羽も体もしっかりとした茶色のあのよく見慣れた蝉そのものへと変身し、朝日の中へ飛びたっていくわけです。それは言ってみますと、この地上での人類の生長過程ととてもよく似ているのです。よく、この地上での人類の歴史では、いままでに六回ほどの大きな変動、変換期があったと言われます。そして今度は七度目の正直ではありませんが、七度目の大変換の時であり、これがこの地球での最後のものであるという話を聞いたことがありました。もしそのことがほんとうであれば、いまのこの蝉の姿は全くピタリの話ではないだろうかと思いました。 (征さん) ↑===============================================↑

山田征さんのお話には、同じテーマが、違った例え話で、何度も登場いたします。

人間の魂は、地球外の宇宙からやってきました。そして、この地球上で転生輪廻を続けて、魂として成長してきました。

この「あたらしい緑、あたらしい生命」とは、転生輪廻をくり返してきた私たち人類が、蝉の幼虫が、緑色の成虫に脱皮するように、新しい命に生まれ変わって、いずれこの地球を飛び立っていくことを、表現しているのです。

六回ほどの大きな変動、変換期があったというのは、ムー大陸や、アトランティス大陸が海中に沈んだこと、氷河期が到来したことなどを指しています。
そして、今度の七度目こそ、最後の大変換期であり、この地球での最後のものであるというのです。
この大変換期とは、今後(2019年以降)に迎えようとしている「イベント」であり、「アセンション」に他ならないと思います。

征さんの言葉は、続きます。

P.292 – 295 あたらしい緑、あたらしい生命、緑の蝉のお話 “啐啄同時”(そったくどうじ) ↓===============================================↓  さてそれでは、その切り開かれた背中とは何でありましょうか。多分皆さまは”啐啄同時”(そったくどうじ). という言葉を御存じではないかと思います。つまり、機を得た両者が相応ずること、つまり、親鳥に温められた卵がまさに割れようとする時、中からはヒナ鳥自らがその小さく可愛い嘴でチョンチョンと自分を守り閉ざしていたカラをつつき、外からは親鳥が強い逞しい嘴でコンコンとカラをたたき、中から十分に育ったヒナ鳥が飛び出してくるのを援けるその姿を言い表した言葉だと言われます。それは全く絶妙なタイミングでなされるものだとききますが、もしもまだ充分に育ちきれない卵の殻が破れてしまいますと、中のヒナ鳥は死んでしまいます。逆に充分に育ち切ったにもかかわらず、なかなかその殻が破れないとしたら、それでも中のヒナは窒息して死ななければなりません。  やはり脈々と生きづく生命を宿したタマゴは、いつの日か、そのカラを打ち破る時がやってくるのです。  ところでいま私は、大変乱ぼうで危けんな話を皆さまの前にしようとしています。うまくきちんと受け止めていただけますならばなんでもない話ですけれど、それがなされない場合は大変な誤解を受けることになると思っています。  そうです、先ほどから書いていますように、いま私はこの地球のことを、中に息づくヒナ鳥を抱えた卵に例えて話しています。ヒナ鳥とは私達人間であり、その魂そのもののことを言おうとしています。卵のカラはオゾン層と言うことも出来ます。人間の魂はすべて宇宙に所属し、またさまざまなる他の天体の星々に所属していると言えるはずなのです。  この地球以外の他の天体、他の星々にももちろんさまざまなる生命体、生命意識、そう、はっきり生命体と言わないまでも意識としての存在はあります。そのことを、もういまこの時代ですから受け入れることの出来る人が多くなっているのではないでしょうか。信じられなくても否定することは出来ない時代であると思います。それはいままでの長い歴史の中で言われてまいりました神々や仏、あるいは霊といった感覚とは少し違ったものであるかもしれません。  今年はことに国際宇宙年(注、1992年)とも言われていますように、テレビや新聞、その他いろんな分野で”宇宙”はとても大きくとりあげられ、”宇宙人”は言葉としてもごく自然に私達の生活、感覚の中に入ってきているのです。そうしたものを扱った映画やドラマはとてもたくさんあります。  私達は地球と言う星の宇宙人です。いえ、話を前に戻しますならば、私達は宇宙の中の小さなタマゴのカラの中で育ってきたヒナ鳥のようなものではないでしょうか。これから先、本当の意味で宇宙の一員、宇宙の中の一地域としてやっていくには、克服していかなければならないきびしい物理的な要素があまりにも沢山あるのではないかと思います。まず私達地球人は、このオゾン層にかこまれ閉ざされた大気が無ければ一日たりとも生きていくことが出来ません。しかしその大気が外にもれたり外からの有害物質、いえ、未知なる太陽光線、宇宙光線が入ってくるのを遮蔽してくれていたオゾン層には、すでにあちこちに穴が開いてしまったのです。もうこれは、それこそ奇蹟でもないかぎりこの穴をふさぐことは出来ませんし、このことはもうだいぶ前から地球規模の大ニュースになっていますから、知らない方はないと思います。  この小さなタマゴをあたため続けてきてくれたのは、私達の親であり母鳥であるあの太陽です。古来から私達人類は、その地域の違い、民族の違いを大きく越えたところで、ほとんどがあの大空に照り輝く太陽を親とも神とも思い、敬い続けてきたのではなかったでしょうか。  さあ、母なる太陽、父なる太陽は、どれ程多くの時の流れを越えて、その強く逞しく、そしてときに厳しく、あるいはとてもやさしい日射しのもとで、私達をあたため育んできてくれましたことか……。  ところでいま私達人類、地球人は、このタマゴのカラの中で十分に育ったと言えるでしょうか。どうでしょうか、いま私にはそのあたりのこと、何とも言えない気がしています。もし十二分に育ったとしましたならば、そろそろカラは完全に破らなければなりませんし、まだまだ未熟なままであるとしたら、いまの勢いでカラが破れてしまったらそれこそ大変です。外からのさまざまなる有害物質、光線で、私達人間どころか他の多くの動植物ともども、どのような被害を受け悲惨な状況となってしまいますことか……。それはまだ未知なるが故に、しかとはわからないことばかりです。しかしいま私達は、自らの生活のあり方、地球環境に対する無知さかげんの上で、外から親鳥がつつくよりも先に、中からあわててカラを破りすてようとしてはいないでしょうか……。  ”啐啄同時”絶妙なるタイミングとは、いったいその時、何が起きてしまうのか……。ほんとうにほんとうに神なる宇宙意識の意に叶った”時”とはなんであるのか。ほんとうに意に叶った時期(とき)であるならば、何が起きたとしても決して恐れることはないのではなかろうか……そんなことを、私はノートの話を通して考えているのでした。   (征さん) ↑===============================================↑

征さんは、地球人類を卵の中のヒナ鳥、卵の殻をオゾン層、太陽を親鳥にたとえて、とても上手い例え話をされています。

30年ほど前、未熟であった地球人が、殻を破って、ちゃんと孵ることができるのか、征さんは、とても心配されていました。
そして、その殻を破る、”啐啄同時”の絶妙なるタイミング、神なる宇宙意識の意に叶った”時”とは、なんであるかのか、考え込んでおられました。

この2019年は、その”啐啄同時”の絶妙なるタイミングであるのかもしれません。 私たち人類、いえ、私自身に置き換えて、殻を破るだけの準備ができているのか、今一度、心に問うてみましょう。
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