山田征さんの「二つの世界の間に立って」(1995年9月10日 初版)の中に、「男と女、そして夫婦のこと」というお話が、収められています。
このお話は、”カルマの清算”、”カルマの修正”ということをテーマとしています。
このブログで、しばしば登場する「人間ドラマ」を手放すこととは、この”カルマの清算”ということに、他ならないと思います。
二つの世界の間に立って 表紙
あるサイトでも、同じようなテーマ「加速するカルマの解消」のページがありました。
少し覗いてみたのですが、抽象的過ぎて、ピンとくるものがありませんでした。
 
さて、人間は、いろいろなお勉強を必要としています。
人生体験が少ない、若いころは、恋愛に夢をいだきながら、果たせず、辛い思いをしたものです。年齢を重ねるうち、年相応に、男女のことや、恋愛についても、それなりに落ち着いた考えに至るのではないかと思うのです。
私自身も、離婚、子供との別れ、再会など、様々な愛憎劇を経験しました。過ぎてしまえば、それらを経験してよかったな、と思える時が来ました。
 
征さんのご経験から、語られた「男と女、そして夫婦のこと」というお話を、ご紹介させてください。
「二つの世界の間に立って」P.117~P.127  男と女、そして夫婦のこと↓===============================================↓
 これまで多くの宗教の教えの中で、いえ、そのように構えて出なくても、ごく普通、一般的な社会常識の中で、一度結婚した夫婦が、その同じカップルのままで仲良く一生を過ごすことが出来たら、それは、当たり前のことながら、とても素晴らしいことなのだと思います。しかし現実には、それこそ、この夫婦の関係、と言いますか、男女の関係こそが、この世の大半のドラマやトラブルの原因となっているのではないでしょうか……。私のこの本を読んでくださっている方々の中にも、結婚、離婚、再婚、あるいはそこに至る以前のところで、さまざまな問題を持ち、精神的葛藤を経験した方が沢山いらっしゃると思います。
 私(征さん)の長女は、別にクリスチャンではありませんが、数年前、自分の出た学校の近くの、とても小さな教会で結婚式を挙げました。学生の頃、ちょこちょこ出入りしていたその教会の神父さまと親しくなり、式場としてその教会を選んだようでした。
 その時、神父様は、娘達、新しい”夫婦”というカップルの誕生に際し、”死が二人を分かつまで、互いを敬い、慈しみ……”と祝福を与えてくださいました。
 それを聞きながら、私はとても妙な気分に見舞われました。いま、すぐ目の前で結ばれていく娘達二人の終生の幸せを願わない、等ということはもちろんありません。しかし、過去から現在に至るまで、どれだけ多くのカップルが、幸せに満ちた愛のもとに、この言葉で結ばれていったことか……と。しかし現実には、そこからまた日が経ち、時が流れ、多くの男女は互いの相克の中で、傷つき苦しみながら別れてもいきました。終生、その言葉のままに、本当に夫婦相和し、互いの生を全うできたカプッルなんて、ほんとに少ないのではないでしょうか。もちろん、”離婚”という現実的な数字だけをあげるならば、終生を共にした夫婦の方が、だんぜん多いことと思いますが、たまたま別れてしまう程の勇気(エネルギー的な)や経済力等がなかったために、あるいは子供といった強力で捨て難い鎹(かすがい)いったものがあったがために、ぐずぐず、ずるずるしているうちに一生が終ってしまった、ということも、かなりの割合としてあるのではないかと思います。
 私が一連のこの本を出しましてから、こうした夫婦の問題、男女の愛というか、葛藤に苦しむ手紙をずいぶん沢山いただきました。それは、私に相談するというよりは、とにかくそのことを書くことによって、自分の心を整理したり慰めたり、よく見てみたり、力づけたり納得したりしているように思いました。本当は少しも愛していないのに、子供がいるから、相手を苦しめるから、周囲の、ことに年老いた親達を悲しませ、心配をかけるから……と、脱け出し得ない家庭、家族といった囲いの中で苦しみもだえている、そんな手紙を、つい昨日ももらったばかりです。とにかく、私に対してただ書き、読んでもらうそのことで、気持ちを吐き出し、自分自身を保たせているのだな……と思いました。同じような手紙、そして直接的な話、これまでにどれだけあったかしれません。
 また、私の周囲(まわ)りの友人知人の中にも、沢山の苦しみを伴った別れと出逢い、出逢いと別れをしたカップルが、手足の指の数では足りない程ありました。現実に、そうした人達からずいぶんたくさんの相談を受けるはめに陥ってもしまいました。別れる者同志、愛し合う者同志、その双方共によく知っている関係のことが多く、いったい誰に(どちらに)何を言い、何をしてあげれば良いのか、全く手も足も出ない、といった現実が沢山ありました。人が人を好きになったり嫌いになったりといった思い、感情といったものは、とにかく理屈ではないことがほとんどですから困ります。
 そんな時、私は、ただただ相手の話しを黙って聴く、ということに徹することにしていました。大方のことは、それで用が済むようにも思えました。
 ほとんど本人達の間では、決心というか、答えは出ていることが多くありましたが、なかには悲しみと怒りのあまり、”死ぬ” “死んでやる”、ときには”殺してやりたい”等と泣きじゃくり悶える人に対し、為す術もなくただ黙って抱いてやる、背中をさすっているだけ、なんてことも幾度もありました。でもほとんどの場合、そうした雨嵐のような苦しみの時が過ぎ(ほんとに時間、時の流れとは凄いものだな……と私はいつも思うのですが)、日が経ち気がついてみますと、みんなそれなりに落ち着き、それ以前よりはとても良い状態である、というケースが多かったのです。ただ、そのような苦しみの後に、新しく生まれていくカップルは良いとしても、一人、あるいは子供と共に残されてしまった方はとても大変です。でもやはり、時は全てをそれなりに静かに収め、その人の中に眠っていた、その人本来のさまざまな生きる力、智慧、才能を引き出しているように思えます。
 ごくごく身近に起きているこうした沢山の出来ごと、世の中全体で起きています悲喜こもごもなる沢山沢山のドラマ!! いったいこれらのことをどのように見ていくのがいちばん良いのか、と私はずっと考えていました。
 いつかはこのことを、はっきりひとつのテーマとして取りあげていかなければならない、そんな時が来るのではないかと思っていました。そして、本当はみなさん御自身が、これらのことについて、どのように考えているのかな……とも思うのです。
(中略)P.124~
 誤解を恐れず、とても乱暴に言ってしまいますと、人はやはり、”そのことを必要としているのだ”……と思うのです。この人間社会に、そうした”不(負)”のつくようなあらゆる全てのことがなくなってしまった時、その時には、この地上的な人間の生活は、もう要らなくなってしまうはず、と思います。
 人間が全て、平安で平等で、静かで豊かな愛に満ち満ちて暮せるようになった時、これは少し極端な言い方かもしれませんが、私達の前にはもう何のドラマも、刺激も生まれてはこないのでは……と思います。ただ平和に、静かに時が流れていく……。いつまでも、いつまでも、いつまでも、ずっと……いつまでもそうであるとしたら……。人はみな眠ってしまうのでしょうか……。人の魂の輪廻にとって、それは終息の時であるかもしれません。もう人はみな誰も、この世に生まれてくる必要が無くなってしまうわけですから。
 そうですね、人の魂の生れ変り、輪廻転生、それはいったい何の為にあるのか……。それについては、これまでの本の中でも度々とりあげてきました。それは、人の魂にとってのカルマの清算、カルマの修正、あるいは魂にとっての生長の為である、といった話しだったと思います。
 この”カルマの清算” “カルマの修正”といった言葉の持つ意味ですが、私達人間の魂が、何回も何回も繰り返し生きてきた過去世のどこかで引き起こし、未解決のままに生を終った時、その身解決を解決に転じる為に、人はまたこの世に生を受けてやってくる。そのように私は理解しています。
 ですから、この世で多くの出逢いや、さまざまに起きてくる出来ごとのほとんど全ては、すでに生まれる前にみな承知のことであったはずでした。誰と出逢い、何をして、何が問題となって起きていくのか、その起きる問題こそが、とても大切なことではないかと思います。そしてその時、各々の魂と言いますか、自分は、どのようにそれを理解し、乗りこえていくとするのか、そう言うことが出来るのか、出来ないのか、次にまた課題を残してしまうのかどうか……といったようなこと全てが、人が”生きる”、あるいはこの世の中に人として”生れる”意味であり、目的であると思っています。その中に、これまでに書いた、家庭や家族の中の不和ですとか、男女の愛の問題等も全て含まれているはずではないでしょうか。
 私の周囲(まわ)りにいる人で、これまでにいろんなそうしたトラブルを起こしてしまった人、他の人を好きになってしまって、それまでの相手や家族を捨てる、というか、離れて、新しい組み合わせになっていった人、もちろん、そこまでには至らなかった人達も沢山いますが、そうした人達のほとんど多くは、社会的にみて、あるいは人として、決して信用のおけないような人達ではありませんでした。むしろ、世の中のさまざまな矛盾や不合理、あるいは不自然さや不正といったものに正しく眼を向けることが出来る、といいますか、いろんな意味で力があり、尊敬というか、信頼の持てる、魅力ある人達が多いのです。
 とても独断的な言い方かもしれませんが、いま現在、あるいは今生に於て、そのようなトラブルを起こしたり巻きこまれたりしているほとんど全ての人達は、かつてどこかの生に於て、やはりその原因になるべき何かがあった、ということだと私は思っています。あるいは解決しなければならない、といいますか……。
 ある人はトラブルを起した人であったり、起された人であったり、中には非常に厳しくそのような人を取り締った人であったかもしれません。また、人にも厳しく自分にも……といった人もいたかもしれないと思うのです。(後のノートでは、これらのことに対し、同じようにふれられていますが……)
 いずれにしましても、ただ単に、今生にあって問題が起きてしまっているのではないと考えた方が良いと思います。もし、これらのことを非常に冷静に、客観的に、他人(ひと)のことも自分のことも見る余裕が生まれていきますならば、同じ出来ごとであっても、捉え方、見方は、とても大きく変わってくるのかもしれません。そして、ぐずぐずしないで案外あっさりと、ことの処理をしていくことが出来るのかもしれません。その結果は、もうゼロ、良しになって、この世に人として生まれてこなくても良いことになるのか、また次の生へと持ち越すことになるのか……それこそはみな”神のみぞ知る”でしょうか……。
 これを書きましたことが、果して何かの答え、あるいは参考になりますかどうかは、いまの私には解りません。しかし、このことをぜひ入れてみたいと思いました。    (山田征)
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以上です。
 
トラブルが起きている真っ只中は、私たちは、そのことに熱中しすぎて、冷静な判断をすることができません。
起きてしまったトラブルについて、何が原因で起きたのか、よく考えて、気付きを得ることが重要なことだと思うのです。
 
征さんは、トラブルが起きることは、その人がそれを必要としているからだとおっしゃいます。
そのトラブルのほとんどは、人の魂の生れ変り、輪廻転生の過程で、作ってしまったカルマについて、”カルマの清算”、”カルマの修正”の為に、起きてくるとおっしゃいます。
つまり、トラブルとは、”カルマの清算”、”カルマの修正”をする上で、とても良いチャンスになると思うのです。
そのトラブルをきっかけとして、深い気づきが得られるならば、”カルマの清算”、”カルマの修正”が出来るのです。
「もし、これらのことを非常に冷静に、客観的に、他人(ひと)のことも自分のことも見る余裕が生まれていきますならば、同じ出来ごとであっても、捉え方、見方は、とても大きく変わってくるのかもしれません。そして、ぐずぐずしないで案外あっさりと、ことの処理をしていくことが出来るのかもしれません。その結果は、もうゼロ、良しになって、この世に人として生まれてこなくても良いことになるのか、また次の生へと持ち越すことになるのか……それこそはみな”神のみぞ知る”でしょうか……。」
 
本当に、征さんは、とても難しいことを、いとも簡単に、あっさり言ってのけられます。
男女関係にまつわるトラブルは、いわば、「人間ドラマ」の代表例です。
「人間ドラマ」を手放して、”カルマの清算”、”カルマの修正”をしようという方には、この「男と女、そして夫婦のこと」というお話しは、とても具体的で、参考になると思います。