今朝(6/26)の未明に、近くを台風が通り過ぎたようでしたが、自宅の辺りでは、それほどの大雨はなかったようです。
神社の社
今朝、いつもの神社で、Tさんとお会いしました。
この週末は、天気が悪いので、「明日(6/29)の比叡山の結縁灌頂は、雨かも知れませんね。雨の中の参拝は、どうなんですか?」と声を掛けました。Tさんは、
「雨の中の参拝は、倍利益といいます。」と、おっしゃいます。
「何故?」と、尋ねると、「お足元の悪い中を、わざわざ参拝するということは、それだけ、信仰心が強いということになるからです。」という、お返事でした。
 
さて、今日は、28日なので、「黒川家之祈り」の日です。
現在のところ、少し雨が降っていて、一日中こんな天気が続きそうです。今日も、先月の時と同じ、お清めの雨なのでしょう。
 
最近は、そんなに目立って天気が悪いこともないこともあり、以前ほど、雨が気にならなくなりました。
このところ、感じることは、黒川家之祈りを奉献するに当たり、切羽詰まった思いのようなものがすっかりなくなり、肩の力が抜けた感じがします。
 
「お神のご用で、黒川家之祈りをさせていただきます。ありがとうございます。」という気持ちで、静かに勤めさせていただいております。
 
今年(2019年)の1月に、高橋信次先生の正法を、40年前と変わらず実践しているGLA関西本部と出会わせていただき、改めて、正法に帰依することになったことが、気持に変化が起きた理由の一つかもしれません。
 
十三神之祈りと、正法は、こちらを立てれば、あちらが立たずということはなく、自然に両立しています。
その理由は、信次先生が説かれた「正法」という教えが、極めてシンプルであるということ、そして、二つとも大本の神の教えであることに変わりないからだと、思っています。
 
信次先生の教えの基本は、正しい法と、それを実践する規範である「八正道」、そして、つねに反省しながら、実践していくということです。
 
八正道の最初の「正しく見る」ということの基本は、肉体そのものを自分とみるのではなく、肉体は永遠なる魂の乗り舟にしか過ぎない、ととらえることです。
 
人間は、この世限りの人生ではなく、肉体の死を迎えても、魂があの世に戻り、永遠の転生輪廻を繰返す存在なのです。
 
正法のご縁にふれることで、自らの過去世を思い出し、過去世の言葉(異言)を語り出す方も多数おられます。
仮に、過去世を思い出されない方であったとしても、永遠の生命であることには変わりはありません。
 
正しく見るということが定まれば、後の、正しく思う、正しく語るといったそれに続く、八正道の規範は、自然と整ってきます。
 
中には、自分の過去世を思い出したことによって、人間は永遠の生命であるという考えを、他の人に押しつけてしまう方がおられます。
これは、正しく語るということでは、ありません。当然、正しく見るということでも、思うことでもありません。
 
現在の世の中で、人間は永遠の生命であるという考え方は、少数派であり、多くの人に受け入れられる考え方ではありません。
それを、無理に押しつけようとすると、人間関係を壊してしまい、正しく精進すろことができなくなります。
 
そして、正しく生活することも、正しく仕事をすることもできなくなり、八正道の総ての規範に合わないことになります。
 
もう一つ、正しく見るということのポイントは、第三者の立場で見るということです。
 
人間は、どうしても、自分中心の見かた、自分さえよければよいという、利己主義な考えに傾き易いので、自分も相手も、公平な目で見てどう行動するべきかを考えることが必要です。
 
こうした八正道を規範にして、毎日、自分の行動を反省することが、正しく禅定することになります。
 
また、お金儲けだけを、念ずることは、正しく念じることではありません。他の人の幸福をいつも念じるようにしたいものです。
 
この正法という教えは、お釈迦様の教えである仏教をベースにしています。
ただ、現在の日本の仏教とは、例えば、次のような点が異なります。
 
・他力本願ではない。あくまで、自力。
・偶像崇拝をしない。
・参拝で自分のお願いをしない。
・あの世の存在を、ハッキリ肯定する。
・葬式仏教の否定。
この世限りの人生という考え方を捨てて、正しい法に適った生活をすることが、私たち人間を創造した神様、大宇宙、大神霊の思いに適うことになり、幸福な生活を送ることが出来るのです。
私は、これまでも、また、これからも、十三神之祈りと共に、正法に適う生活を、淡々と続けていこうと思っています。