昨日(7/6)、ある別荘地に、良い出物の物件がないか、息子とドライブがてら、見学に行ってきました。
気に入った別荘が見つかったのですが、あいにくオーナーの気が変ってしまい、譲渡を取り下げられてしまいました。結局、その別荘地まで何をしに行ったのか、分からないような状況になり、家に戻ってきました。
物事がスムーズに行かない時は、希望通りに事が運ばない方が、私にとって良いのでしょう。一旦、そのことを脇において、いずれ時間が答えを出してくれるのを待つことにしました。
さて、昨日(7/6)は、「大自然の波動と生命」のブログの中で、次元の異なる世界によって、正しさの基準が異なるというお話をさせていただきました。
先日、ある方から、「正しいという基準には、普遍性があるとはいえない。その普遍性がない正しいという言葉を使って、お釈迦様は、八つの正しい道を、本当に、説かれたのだろうか?」という問いかけを、いただきました。
確かに、正しさの基準は、人によって、あの世の次元によって、変わってしまいます。
私たち人間は、転生輪廻の過程を通して、愛を実践することで、さまざまな魂の学びをして、少しずつ成長していく存在です。
魂が成長すればするほど、波動が精妙になり、住む次元が上昇していくことになります。
次元が上昇することで、神という存在に、近づいていきます。
究極の神の次元の世界に、真のメシアがおられます。
真のメシアは、この大宇宙を創造した創造神と、不離一体であって、この太陽系宇宙の最高神であります。
如来界(八次元)より、上位の太陽界(九次元)は、大天使ミカエルを中心とする、七大天使たちの現われの場です。
大天使ミカエルは、真のメシアの下僕として、この太陽系宇宙全体の最善のために、地球の全人類を導いておられます。
今年(2019年)1月元旦に公開した「光の器を」というブログの中で、我と名乗る神(最高神)からのメッセージを、お伝えさせていただきました。
(中略)…… 我の住む天上界は、不可能なことは何一つない。 では、なにゆえにこれが可能か。人の心は霊子線によって、天上界につながっており、人類の霊子線は、我の視界に、すべておさまり、我の心から離れることがないからである。そなたたちが、己を正し、己を光の器とするとき、神の光はそなたらの器に満たされ、安らぎと調和を与えずにはおかない。 我を信じよ。 我を信ずるとは、法にそって生きるということだ。 盲信、狂信は、信の世界ではない。信の在り方は、そなたたちが、大宇宙の不変的神理にしたがって、生きるということなのだ。 我は光なり。 我は法なり。 我は道なり。 そなたらは、たがいに補い合い、助け合い、手を取り合って、前に進め。そのとき、我は、そなたらに、光の道をさし示して導いてゆくであろう。信じて、疑うことなかれ。
「我」(=真のメシア)と名乗られる神の元に、全人類の霊子線でつながっており、「我」の視界から外れるものはないのです。
その「我」が、全体の最善となるように、私たちを導いておられます。
その導きの指示の元、イエスキリストや、大天使ミカエルなどの大天使達は、立ち働かれているということ以外、何物もないわけです。
ブロッサムさんがおっしゃるように、私たちの周りでは、様々な悲惨な事件、出来事が日常茶飯事のように起きています。
どれほど悲惨に見える事件が起きたとしても、それは全体の最善となるように、コントロールされており、人類全体をアセンションに導くために、起きているのです。
そのことを、私たち人類は信頼すべきです。今の世の中で、たとえ自分が納得がいかないことがあったとしても、それが人類全体の最善のためになると信じて、「大宇宙の不変的神理」に從って生きることが、私たちに求められているということだと思うのです。
「我」という存在は、私たち自身の心の奥底、魂の世界に存在しています。
私たちは、今こそ、心の奥底にある神なる自我につながり、目覚める時なのです。
それが、この「我は光なり。我は法なり。我は道なり。」というメッセージの意味なのです。
この「大宇宙の不変的神理」とは、つまるところ、宇宙の中心である最高神の神理、正しさです。
私たち、人間は、それぞれが住む次元が異なっていたとしても、「大宇宙の不変的神理」を信じる以外に他に道はないといえます。