高橋信次先生の「新・復活」その4 エル・ランティの覚醒

晩年の信次先生 スピリチュアル
昨日(3/6)の「新・復活」その3 ミカエル参上 に続き、高橋信次先生の「新・復活」その4 エル・ランティの覚醒 を公開させていただきます。
 
大天使ミカエルが、大粒の涙と共に、信次先生に向かって、「主は目覚め給えり 偉大なるエル・ランティ様...」と、呼びかけたその時でした。
   「新・復活」その4 エル・ランティの覚醒    (よみがえった 聖書の原点)
 その瞬間であった。  私の心の中の扉はひらかれて、丁度私が生まれてくる二十年前天上界における対話の情景が眼前に展開されたのであった。
 私は思い出した。  肉体舟に乗ってしまうと、人間とは誠に愚かしい者。  前世の約束事などすっかり忘れ、五官本能にほんろうされて、暗中模索自ら苦悩の道を歩んでしまうのが人間の常である。
 人の歩むべき生きる正しい道がわからなくなってしまった末法においては、猶更のことだといえよう。  特に、生れた環境・教育・思想・習慣の中で独りよがりな偽りの人生を送り、正しい物の考え方や行動の基準すら、わからぬまま、心の中は苦悩のスモッグでみたし、自らの人生を狂わしてしまいがちなものだ。
 物質経済偏重の間違った思想は、闘争と破壊を呼び、社会生活を混乱におとし込み同志と呼びあっている仲間同志がいつ裏切行為に出るかその信頼度は誠に不安定なものなのである。  なぜならば、相互の心の中に闘争と破壊の不調和な原因が潜んでいる以上、不平不満はどのような現象に依って起こって来るかわからないからだ。  真実の信頼関係は成立しないだろう。  権力や武力、腕力で一時支配したかに見えても人間の行動は束縛出来ても、心の中まで支配することが出来ないということをこのような間違った思想家達には理解できないだろうか。
 又、間違っている宗教は心まで腐敗してしまうものだ。  聖書の奴隷、仏典の奴隷、いかに知識だけあっても行いがともなわなかったなら、絵に書いた「ぼたもち」にしか過ぎないということである。  仏教の如きは肉体先祖の供養にのみ走り、真実のゴーダマ・ブッタの教えとは程遠いものになってしまった。
 学校教育は、智識のつめ込み教育で人間性情緒の発見は愚か、人生の目的と使命すら、理解することは出来なくなってしまった。
 道徳はたいはいし、自己主義、自己保存のエゴが堂々とまかり通っている世相である。  此のような 社会の中で、真実の人間として生きる価値を悟ることは、恰も、広い砂漠の中に小さなダイアモンドを探し出すにも似て誠に非難な業といえよう。
 そのような厳しい環境の中で、私はいかなる思想にもいかなる宗教にも偏することなく、十才の時から今日まで、自然科学を通して人間の生きる道を捜し求めて来た。  そして、その道は片寄った考えや行いはすべて苦悩の道であり、心こそ不変的なものであり、物のとらわれから自らを解放し、慈悲愛による調和された環境づくり以外に幸福は得られないことを知ることが出来たのである。
 私は、偉大なる天使が目の前で慈愛にみちた言葉で、泪を流して訴えている姿を見た時、心の中はふるえ、こみあげて来る感激の泪を止めることは出来なかった。
「ミカエルよ  私は永い間、すっかり地上界の泥沼の中につかり、欲望のとりことなり、物に溺れ情欲に溺れ見るもむざんな者でした。  永い悪夢から、良く私の魂をゆすりさましてくれた。  盲目の人生航路に旅立った 私の姿をいつもはらはらしながらさぞや心を痛めたことであろう。  永い年月誠に不甲斐ない私を暖かく見守って来て下さいました。  心から礼を申し上げます………」
 私は言葉にならなかった。
「主は、既に八年前に自覚せり  我等、今日の日は一日千秋の思いでお待ちせり
 主は既にインドの時代のゴーダマ・ブッタの説かれし法は既に説き終えたり  主が天上界におられし時に計画せし通り遂行中主よ安心せられ給え。
 しかし道は はるかなり 我等主を信じ、主とともに歩まん」
「ミカエルよ  厳しい人生航路の修行も、薄氷を踏む思いで、ようやく法の道にたどりつくことが出来ました。  もう安心しておくれ
 私の道はひらかれました  我れは 法なり  我れは 道なり  我れは 光なり  我が道を歩まん  ミカエル 有難う-」
 私は、せきを切ったように泣きくずれてしまった。  ミカエルも泣いている。  佳子も泣いていた。
「主は悟られたり  厳しき人生航路の中で良く耐え給えり  我等、主を祝さん」
「ミカエルよ  有難う。これからも一生懸命やって行きます」
(その5へ続く)
 
以上、です。
 
ついに、信次先生の心の中の扉は開かれて、自身が主エル・ランティであることを、思い出されたいのでした。
 
肉体を持ってしまうと、如何に、信次先生と言えども、愚かな人間になり果ててしまいます。
人の歩むべき正しい道がわからなくなってしまった末法の世の中で、肉体を持って目覚めることが、広い砂漠の中に小さなダイアモンドを探し出すにも似て、どれだけ至難の業であることでしょうか。
 
信次先生は、既に、八年前の一九六八年に、ご自分を自覚されていたにもかかわらず、更に、もっと高い悟りの境地に、進まれたのでした。
そして、その境地を、次のお言葉で、語っておられます。

「私の道はひらかれました  我れは 法なり  我れは 道なり  我れは 光なり  我が道を歩まん  ミカエル 有難う-」

この時の悟りについて、信次先生は「光の器を」という表題で、1976年9月号のGLA誌に、発表されておられます。ブログ、「光の器を」を、ご参考にしてください。

この時の信次先生とミカエルの喜びと感動を思うと、胸が熱くなります。 エル・ランティとしての新たな決意には、奮い立たされます。
この信次先生の覚醒から、太陽系霊団の系図など、高次元の世界の仕組みなどが、次々と明らかにされました。 私は、このような稀有な時代に、この日本に生まれて生かされているということ、そして、このようにブログに記すことが出来たことに、改めて、深く感謝します。 この事実を信じ、喜びを受け取れる方は、幸いです。
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