今朝(1/22)、NHK BS1 のワールドニュースを見ました。
アメリカでは、摂氏マイナス30度の寒波がボストンを襲い、「LIFE THREADING-COLD」(命にかかわる寒気)が襲来しているそうです。-30度では、30秒で凍傷になるそうです。
フランスでは、北ヨーロッパからの渡り鳥が、アフリカに渡ることが出来なくなり、大量にフランスで越冬するようになったニュースを見ました。その原因は、地球の砂漠化で渡りが出来なくなったためです。
特に、信仰心の強い人たちの中には、聖書にかかれている「黙示録的な世界の終末が、近いのではないか?」という素朴な心配を持っておられる人も多いと思います。
そして、転生輪廻を信じる方々の中には、「自分が生きているのは、前世に犯した罪があるからなのか?」という不安を持っておられる方も多いと思います。

「吹く風もまた私である」の本の表紙

その一つのアドバイスが、「吹く風もまた私である」(1992年8月10日 初版)という山田征さんのご本にあります。
よくある宗教的な説教とは、少し趣きが違うお話なので、ご紹介させてください。

世界の終末、黙示録の世界について、次のようなメッセージがあります。

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 あの聖書に記されてあります黙示録につきましては、すでに前にお話ししたことと思います。
 そうですね、いま彼のこだわりといますのは、黙示録の内容もさることながら、そのことを伝えましたあの”ヨハネ”という人物に対する想いといますものも多分にあると思います。
 黙示録、あるいはこの世の終末を予言するさまざまな記録のことにつきましては、これまでに何回かふれてまいりました。私達はそのことが決して無いとは言っていないのです。それは実際に起き得ることであり、またすでに起きていることですと伝えてもまいりました。あなた方はすでにそれらのことを目にもし耳にもし、なかにはその渦中にある者も居るのではないでしょうか。
 いえ、もうひとつ話をすすめて言いますならば、彼が心配していることの最大のものは、このあなた方が住んでいます日本という国、大地が、あの予言のように海の中に沈んでしまうのかどうかということです。またいまひとつ、彼もその手紙の中に記しましたように、あの”獣の刻印”といったことでありましょう。それはまた、あのカインの額に印されました刻印であるともいえるのです。
 私達はいま、そのことを取り除くべく、このノートを使っていると言えるのです。私達が今までに伝えてまいりましたことは何でありましたでしょうか。このノートの上にてはじめて彼”るしえる”の名前を、いえ、その名のまことの意味を明らかとしてまいりましたのは、ひとえにそのことの他、何でありましたでしょう。
 私達はいま、この私(いえす)自身のこと、私によります数々の教えのことすべてを、あの聖書を越えて伝えようとしているのです。あの書物の中に収められてありますことがらは、とても大切なことばかりではありますが、それがかつてあの旧約の書を越えましたように、いままたこのノートは新約の書を越えようとしているのです。そしていつかまた、いまあなたに伝えていますこれらのことをさらに超えて行くものが現わされるときがまいります。そのようにしてあなた方人々は、長い歴史の時の流れの中で少しずつ育ってまいりました。
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生きていることの「罪と悪」について、次のアドバイスがあります。

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 昨日も午後、あなたに問いかけました、あの一人の女性の質問があります。それは、「この世に今生きているということは、まだ前世でおかした”罪”が消えないからなのでしょうか」というものでした。人々はまだそのように、ものごとを”罪”として捉えるか、たんなる”学び残し”として捉えるかでは、そのことの持つ意味と言いますものは天と地ほどの違いとなってしまいましょう。
 あなた方がその”罪”あるいは”悪”といったものの受けとめ方、理解の仕方を変えますならば、彼のいいますところの”刻印”は即座に消え失せることになるはずです。
 そのことと、この大地がこの大海原の底に沈みゆくものとなるかどうかは、少し切りはなして考えてみると良いのです。いえ、まことは密なる関係があると言えます。しかし、そのことを私達はあまり強調したいとは思いません。
 地球がいま大きな変動期を迎えていますことは、もはや多くの方々がよく識(し)っているのです。
 良いでしょうか。いま私達は、これら起こり得ることがらを、ひとつの自然の営み、つまりは地球の自浄的作用とみていますし、あなた方にはそのように伝えたいと思っています。そのことに力を貸し、さらに大きな規模の破壊活動へと向かわせるか、出来るだけ小さく静かに押さえますかは、それこそあなた方人々の心の在りよう次第というものです。誰にもそれが何時のことかはわかりません。わかりませんが、いすれそのような時はまいります。いえ、そのことは既に始められているといえましょう。
 あなた方は、あなた方自身を救いあげる一人一人の救い主でありますと、私達はすでに伝えてまいりました。その救い主の到来を何時に致しますかは、あなた方自身で決めることであるとも申しました。そして、”死”をどのように捉えるかにより、あなた方の生きる姿勢はとても変わってしまうものではないでしょうか。もちろん、この予言されました終末的なことがらに対する見方も大いに変わるはずだと思います。
 とは言いましても、人々はやはり肉体的な苦痛などは、出来ますならば避けたいと考えるでしょう。先ごろも申しましたように、彼仏陀が世に在りました最大の目的が、その”死”あるいは”病い”、”老いる”ことなど、それらの苦しみから人はどのようにして解脱し得るのであるか、そのことでありました。彼の教えはあなた方東洋の人々の心の中、生活の中にさまざまな形で有るはずなのですが、それが活きてはいないのです。いまだにあなた方にとりましては、老いも病いも、死といいますものはなおさらに、人にとって避けがたい無差別なる苦しみ、悲劇として、そうです、それこそが悪なるものの概念でしか捉えられていないということなのです。
 よいでしょうか。人はいつまでそうあるのでしょうか。人はいつまでそれらを恐れていたいのでしょうか。そのことなのです。いま私達がここで一挙に解決したいと願っておりますことは、そのことの他何もありません。
 人はそれらのことを恐れるがあまりに、さまざまなる宗教に走りもいたしましょう。さらに神なるものを求める魂は多くあります。善なるものを求め、善なる行いを為そうとも致します。しかし、これらのことを人生にとってのアクシデント、まことにネガティヴなものとして捉えている限り、本当の平安、心の解脱はありますまい。人々の神や仏への祈りといいますものが、そのことをよく表しています。人々の、その苦しみから逃げたい、避けたいとする心が、その苦しみに力を与えていることに気付かないのです。ですから人々は、そのことに気付くまで、苦しみから逃れることが出来ません。それらすべてのものを、自分にとって必要なもの、自分を何かに導き助けてくれるものとして受け入れ認めたときはじめて、それは苦しみでもなんでもなくなってまいります。
 それはまことに現実的な”光”と”影”のお話です。冬場の影はいやなもの、いわば苦しみです。しかし夏ともなりますと、影はとてもありがたい涼みの場となりましょう。光についてもまたそのように言えるのです。真夏の雲ひとつない炎天下の光はまことに耐えがたいものです。しかしそこに雲があらわれ、その光を閉ざしてくれますと、ほっといたします。
 そうなのです。あなた方の考えていますものは、そのようにあっけない世界なのです。まことに簡単に言ってのけてしまうことの出来る世界なのです。
「罪でしょうか?」「いいえ、単なるやり残しです」
 とまあ、そのようなものでしょう。
 さあ彼に申しましょう。いつまでもハムレットでいないで、楽になってしまいなさい。   あなたへの愛を 心から  いえす そしてまりあ」
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私たちの住む世界は、最近、ますます混とんとしてきたと言えるのではないでしょうか。
大きな地震、大雨・洪水などの水害、天候の異変、活発な火山活動など、千年に一度、百年に一度と呼ばれる記録的な災害が頻発するようになりました。
宗教心のない日本人でも、どこか変だな、ノストラダムスの大予言のような終末があるのだろうか?と不安を感じる人もおられると思います。

上のメッセージでは、こうした世界の終りを思わせる天変地異について、次のように語ります。

「そのことが決して無いとは言っていないのです。それは実際に起き得ることであり、またすでに起きていることですと伝えてもまいりました。」
「いま私達は、これら起こり得ることがらを、ひとつの自然の営み、つまりは地球の自浄的作用とみていますし、あなた方にはそのように伝えたいと思っています。そのことに力を貸し、さらに大きな規模の破壊活動へと向かわせるか、出来るだけ小さく静かに押さえますかは、それこそあなた方人々の心の在りよう次第というものです。誰にもそれが何時のことかはわかりません。わかりませんが、いすれそのような時はまいります。いえ、そのことは既に始められているといえましょう。」

このメッセージでは、災害の規模がさらに大きな破壊活動につながるか、小さく抑えることができるか、人々の心の在りよう次第であると、おっしゃっいます。
厚真町の大地震の時に、「大難を小難、中難を無難」というブログを書きましたが、人間の心次第で、お神は働くということであると、私は思っています。

「それがかつてあの旧約の書を越えましたように、いままたこのノートは新約の書を越えようとしているのです。そしていつかまた、いまあなたに伝えていますこれらのことをさらに超えて行くものが現わされるときがまいります。」

とも、述べて、聖書にある黙示録的な終末の世界を、超えて行く必要性を訴えています。

私たちは、このメッセージが伝えられて、30年を経ていますが、特に、昨年(2018年)以降は、様々な天使の名前や、宇宙人の名前で、一般的な宗教を越える「メッセージ」が、次々と降りてきていると、私は感じています。

私たちは、いまだに、2500年前のお釈迦様が取り組んだ命題、「生老病死(しょうろうびょうし)」の四つの苦しみから逃れられてはいません。

「生老病死」に対する恐れについて、次のように語っています。

「いま私達がここで一挙に解決したいと願っておりますことは、そのことの他何もありません。」

「生老病死」の苦しみから、逃れよう、避けようとすればするほど、それに力を与えてしまいます。

今、わたしたちが生きている世界には、”光”もあれば、”影”もあります。「生老病死」への恐怖は、いわば”影”に当たるものと言えるでしょう。
どちらも必要だという見方をすることで、乗り越えられるのでは?とおっしゃいます。

何かの「罪でしょうか?」という問いに、「いいえ、単なるやり残しです」と言い換えるだけで、その捉え方が随分変わってくるとおっしゃいます。

黙示録的な天変地異が来るか来ないか悩んで、ハムレットになるより、考えても答えが出ないことは、手放して楽になりなさいと、アドバイスをしています。

これらの山田征さんに伝えられたメッセージは、聖書にある教義を越えて、根強く残っている「信仰」上の悩みから、人間を解き放とうとしています。
長い歴史の中で、現在(2019年)という時にいたり、人間のさらなる精神的な成長を促していると思うのです。
もう「生老病死」の苦しみ、恐怖を手放すときに来ているのではないか、と思われます。

 

尚、この「吹く風もまた私である」のご本は、下記に注文されるとよろしいかと思います。

『ヤドカリハウス』
東京都三鷹市井口 2-18-13