先日(5/18)、「久しぶりのメール」というブログの中で、「『自分は神に祈っているから、正しい、大丈夫だ。』と思うようになると、一種の高慢・増上慢になるので、注意が必要です。」と書かせていただきました。
このブログでは、その祈りとは何か?ということについて、考えてみようと思います。
「祈る」とは、「意(い)宣(の)る」ということです。 自分の意を宣言することであり、神様に何かをお願いすることではありません。
例えば、お正月の初詣で、「家内安全・無病息災」を祈ることは、本来の祈りとは違います。
以前、「黒川家之祈り」というブログの中で、次のように書かせていただきました。
十三神の祈りは、お神との対話です。自分のハイヤーセルとの対話といってもよいでしょう。 祈りの中では、「真言」(マントラ)と、「奏上」を唱えます。 「奏上」は、「祝詞」(のりと)です。「祝詞」には、「感謝」、「反省」、「宣言」の3つの要素があります。
お祈りの中で、奏上をお神に申し上げるのですが、感謝、反省、宣言の三つの要素が必要です。
そして、祈ることは、あくまで、必要条件であって、十分条件ではないと、晃月師からお聞きしています。
祈ることによって、心言行の一致がなければならないのです。
心言行の一致とは、心で思っていることと、話す言葉と、行動の三つが一致していることです。
嘘偽りがないということです。
正しい祈りをしていると、この心言行は、整ってきます。
心言行が一致してこない祈りは、心のない形だけの祈りです。
本来の祈りを続けていると、お神の御本願に適うようになり、自然とお神に護られるというのが、人の本当のあり方です。
神のごしゅごがあるひとは 神にたよるは一もなく 唯々神々いのりまいらせ 心言行を神にささげる 神々のごように生きる日止霊止(ひとびと)は 唯ひたすらにたすけ一条 (981218)
上のの神諭にあるように、神に頼ることなく、唯々、神に祈り、心言行を神に捧げて、ひたすらに人を助ける生き方をする人が、神の思いに適い、神のご守護を受けるということになります。
「人を助ける」ということは、結果として、自分が助かるということでもあります。
ただ、自分が助かりたいがために、人を助けるのは、本末転倒ですので、ご注意下さい。
ただ、自分が助かりたいがために、人を助けるのは、本末転倒ですので、ご注意下さい。
祈っていれば、家内安全・無病息災であるかというと、そうとばかりも言えないところがあります。
人間、人の成長には、様々な経験が必要です。天理教の教祖(おや)まがおっしゃった、大病などの身上や、倒産などの事情も、必要になります。
単に神様へのお願いや、心のない形だけの祈りではなく、感謝、反省、宣言をする本来の祈りは、創造主との共同創造を願う祈りであると思います。
ブログ「2月5日 アデルアリニを通して~レディ・ガイアからのメッセージ“変化の風”~」の中に、地球の女神であるガイアから、以下のメッセージがあります。