昨日(10/9)、「天之御中主神」というブログを書かせていただきました。
そのブログの中に、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神名を唱えることで、幸せになれる、運がよくなるというお話をされているユーチューバーさんのお話をいたしました。
そのユーチューバーさんは、次のような趣旨のことも、おっしゃっておられました。
「天之御中主様は、エホバや、ヤーベとは関係ありません。」
イエスのことを、ジーザスということがありますが、確かに、そういう意味では、キリスト教のエホバ、ヤーベは、天之御中主神と同じではありません。
私がお話したいことは、聖書のエホバも、ヤーベも、そして、神道の天之御中主神も、ペルシャのゾロアスター教(拝火教)のアフラ・マズダも、太陽系宇宙の最高神(エネルギー)であると言う点で同じということです。それぞれの「神名」は、そのエネルギー(神様)を見た民族が、その神様に付けた名前なのです。
「神世七代と八柱之大神」というブログで書かせていただいたことですが、松川晃月師は、「神名」とは、その神様のエネルギーの働きに対して、人間が付けたものにすぎないと、次のように、おっしゃっておられます。
「神名自体は、あまり重要ではない。それより、その神が持つエネルギー、働きを知ることが重要である。神名は、人間が、便宜的に付けたにすぎない。」
古来、日本には、神仏習合、本地垂迹説という考え方があります。
神仏習合とは、平たく言えば、「神も仏も元をたどればおなじこと」という考え方です。
飛鳥時代以前、あくまで神道を信奉する物部氏と、新しく伝えられた仏教を広めようとする曽我氏との間で、血で血を洗う宗教戦争が起きました。
「神も仏も元をたどればおなじこと」という考えによって、その争いは終息しました。
これは、日本人の智慧と言えるかもしれませんが、それが真実の姿であるのです。
神仏習合の例として、江戸時代、神道の天照大神と、仏教の大日如来は、同じ神様だと考えられていました。
大日如来は、別名を、毘盧遮那仏(※ 奈良の大仏の名前)と言い、マーハーヴァイローチャナというインドの仏さまです。
神仏習合によって、インドの仏教の神様と、日本の神様は同一視されることになりました。
明治に入り、神仏分離令が出されるまでは、春日大社と興福寺は一体でした。貴船神社と鞍馬寺も一つのものでした。
今でこそ、神道と仏教は、別のものとされていますが、明治より前は同じものでした。
本地垂迹説とは、大元にある高次元の神(エネルギー)が、垂迹して(次元を下げて)、別の姿を取ることをいいます。
中世以降、妙見信仰が盛んになりました。
天之御中主神(北辰)が、垂迹して(次元を下降して)、妙見菩薩として現れたと、考えられていたのです。
天之御中主神(北辰)が、垂迹して(次元を下降して)、妙見菩薩として現れたと、考えられていたのです。
天之御中主神は、古事記にある通り、「天地初めて発(おこ)りし時、高天原に成りませる神の名」です。
一方、ヤハウェ(ヤーベ、エホバ)という神名は、「私は在りて在るものである」を短縮した言葉から来ています。
モーゼが、シナイ半島の山で出会い、十戒を授かった神様がヤハウェです。
旧約聖書、出エジプト第3章に、次のようにあります。
「神モーセにいひ給いけるは我は有て在る者なり」
「有て在る者」を短縮した言葉が、ヤハウェ(ヤーベ、エホバ)なのです。
そして、ヤハウェは、旧約聖書、創世記の冒頭で、「元始めに神天地を創造り給へり」と描かれている神様に他なりません。