私は、お稽古事として、詩吟を習っています。
この詩吟という趣味は、「詩吟の楽しみ」というブログに書かせていただいたように、なかなか奥深いもので、これからも続けていこうと思っています。
 
もう一つ、詩吟の教室に通う理由があります。
たかが趣味、されど趣味です。趣味で何かを習うということは、一つの人間性テストのようなものだと、思っています。
なぜなら、私が未熟なため、ついつい腹を立てたりで、感情的になることがあるのですが、そこを、感情的にならずに、やり過ごせるかどうかが、よく試されるからです。それが、人間性テストであるという理由です。
 
怒って感情的になることは、自分自身の波動を落とします。
高橋信次先生は、「何があったとしも、怒りはいけない。」と、いつも戒めておられたそうです。
人間である以上、感情的になるのは、致し方ないかもしれないですが、「正法の生活」を実践しているのであれば、怒りは禁物です。
 
最近は、かなり減ったのですが、以前は、詩吟のレッスンの教室で、感情的になり、怒ったり、ふてくされたりすることが、よくありました。
つい冷静さを失って、キレてしまった瞬間、「これは、まずい!」と気付くのですが、その怒りを止められずに、流されてしまい、感情を抑えられないことがしばしばありました。
 

詩吟は趣味の教室なので、特に、大きな利害関係があるわけではありません。
そのため、私の通っている教室では、それぞれの生徒が、自己主張をします。

上から目線で、命令する人。
人のいうことを聞こうとしない人。
自分のできないことに、愚痴を言う人。
やたら、指導をしたがる人。
何も言わずに、黙って見ている人。
謙虚で控えめな人。
自信満々の人。
 
その中で、思ったことを、言いたい放題、言い合いなるため、結構なバトルが発生します。
 
誰でも、面と向かって、欠点を注意されるのは嫌です。
「ここは、直した方が良い。」といわれると、ケチをつけられたように感じるからです。
 
注意を嫌がる裏には、プライド(※ 高橋信次先生の言葉でいうと、自己保存。)が隠れています。
注意を受けた場合、相手の指摘が的外れ(相手の指導が受け入れられない)と思うと、言い争いになります。
例えば、あの先生はこう言っているが、別の先生はこういっている、等々。
互いが正しさを主張しあうと、正解がない場合は、なかなか決着が付きません。
 
こうしたやり取りの中で、つい感情的になり、キレてしまうのです。
そんな時、内心、「あっ、失敗した。」と思い、後悔します。
感情的なバトルが起きるたびに、正直、教室に行きたくないと思うこともありました。
 
しかしながら、そうしたネガティブな感情を、思いっきり出しても、後腐れがないところが趣味の集まりです。そのような場所は、そんなにあるものではありません。
その意味で、感情のコントロールができるかどうかを試す場所として、絶好の場とも言えます。
 
そのような理由で、お稽古事の教室を、感情コントロールを試される試験場と、思うようになりったのです。
以前、光の銀河連合さんが、おっしゃっていた「撒き餌」(例えば、自分の感情を逆なでするような情報)に引っ掛かってしまい、よくネガティブな感情に陥いることがあります。

私は、’撒き餌’に食いつかないようにできるかどうかを、試される場として、お稽古事を捉えています。

相手の問題点を指摘する裏には、その人を少しでも良くしてやろうという愛情が、隠れていると考えるようにしました。
そう考えると、いろいろ気に障るようなことを言われても、ありがたいと思えてきて、たとえ的外れな指摘であっても、「はい、はい」と受け流せるように、なってきました。
自分の詩吟について、間違いや欠点を指摘してくれる人は、それが誰であったとしても、貴重な存在として、感謝をすべきなのだということが、少しずつ分かってきました。
そのように思うと、怒りの気持ちも、不思議と、それほど湧いてこなくなるものです。