先日(6/9)に、GLA関西本部の研修会に、参加させていただきました。
ブログの中で、「この研修会をきっかけとして、GLA関西本部で、正法を基本から学ばせていただこうと、決意をしました。」と、書かせていただきました。
高橋信次先生のポートレイト

ここで、ハタと気付いたことなのですが、1976年に、高橋信次先生が昇天されてから、40年以上の月日が経ち、私はかなりのブランクがあります。
そして、1999年12月に、松川晃月先生との出会いから、20年間、十三神之祈りを中心にした生活を、一旦正法を忘れて、別物としてやってきました。

十三神之祈りの神仰と、正法を基準とした生活は、一つの山の頂上を、別々のルートから目指すという譬えがあるように、本質的に目指しているものは同じものであると思っています。ただし、整合性を考えるところはあるようです。

高橋信次先生は「偶像崇拝」を、強く戒められておられました。

旧約聖書の十戒には、次のような内容が記されています。

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」
中略……

高橋信次先生は、偶像崇拝について、次のように、戒めておられます。

↓===============================================↓
 偶像を祭って祈るようになってから、真実の人間として生きる正しい法則が、すっかりほこりをかぶってしまったからだ。
 又、偶像を作り祭ることに依って、その偶像を支配する悪霊がいるということを知らなくてはならない。
 偶像は芸術品として見るべきものです。
 又、天上界の悟られたメシアを形造った場合が多く、作者が心の眼でとらえたものを、画や像に造り出されたものが多いのである。
 祈る対象物になれば、祈る人々の想念がその偶像に作用し、霊的現象をつくり出す場合が多いのである。
 さわらぬ神にたたりなしという諺は、このような現象から出て来たものである。
 霊験あらたかという偶像は絶対にないということを知らなくてはならない。
 若しあるとしたならば、その道で生活している者達の言葉か、それを縁として自から生活を正した結果だといえよう。
 それ故に、間違った信仰をしている人々は、自分の信心している神が絶対に一番だと思っている。
 どんな不幸があっても、善意に解釈して自からにむち打って信仰をつづけている。
 渦の中に入ってしまうと、自分が盲信者であり、狂信者であることすら、わからなくなってしまうものだ。
 そして、自からの心を段々小さくして行く。目がさめた時には、心の深傷を負ってしまうということである。↑===============================================↑

以上、です。

間違った信仰による「偶像崇拝」には、悲惨な結果が待っていることを、私たちは知るべきでしょう。
ただ、偶像崇拝の禁止を徹底すると、イスラム教徒のように、日本の神社や、お寺に詣でても、一切拝礼をしないことになります。
一般的な日本人としては、少し行き過ぎのように感じます。
私は、日々、観音様に向って、十三神之祈りを、捧げています。見方によっては、偶像崇拝と言われるかもしれません。
そこで、高橋信次先生の戒められる「偶像崇拝」と、観音様に対する十三神之祈りについて、どのように違うのか、ご説明させてください。
十三神之祈りでは、日々のお祈りであっても、月に一度のお祀りであっても、最初に、祈りの清め、献香之儀、鈴、人の清め、降神(こうしん)之儀、神前の清めという手順を、踏むことによって、お神に降りてきていただきます。
お祈りが終わった後に、昇神(しょうしん)之儀を必ず行い、お神に帰っていただきます。
つまり、観音様は、お神の一時的な依り代(よりしろ)ということです。
注、依り代とは、お神がおりてくる場所、物。
つまり、この依り代と、偶像崇拝の偶像とでは、その意味合いが全く異なります。
十三神之祈りと、正法の生活を、同時に実践していこうとすると、考え方をすり合わせる必要が、出て来つようです。
正法と神仰との二つの良いとこどりを、することになるのかもしれません。
日本人が、クリスマスと、除夜の鐘と、神社の初詣を、何の矛盾もなく行うようなものかもしれませんね。