昨日(9/30)のブログ、「幽体離脱 その2」の中で、山田征さんのご本「光の帯となって」の幽体離脱というお話をご紹介させていただきました。
この「光の帯となって」というご本には、クライマックスともいうべき、救い主(救世主)についてのメッセージが載っています。
 
山田征さんの「光と影のやさしいお話」の全てのシリーズの中でも、もっとも重要なメッセージであると思いますので、引用させていただきます。
 
「光の帯となって」(一九九一年八月十日 初版) P.217~P220
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 人々はこの長い歴史の中で、いままたあの予言された、いわば救い主といわれます者の再来を待っているのです。それは、そのようなことに意識の上で関心が有る無しにかかわらず、多くの人は待っているのです。何故ならば、あなた方の人々の魂は、今と言いますこの時が一体何であるか、どういう時代であるのかをよく知っているからなのです。
 そうです、そのような人々のほとんどは、やはり肉体的人格を持った者としての救い主を待っていると言えるのかもしれません。しかし、まことの救い主とはそのような者ではないと言いますことを、私達はこのノートの上で度々伝えてまいりました。
 あなた方が待っています救い主と言いますものは、もはやすでに、あなた方自身の中に存在しているのです。
 ほら、良くあなた方自身の心の中をのぞいてごらんなさい。何かほかほかとしてきませんか?何かが何かを求め始めていませんでしょうか?
 そうです。それがそうなのですよ。あなた方が何かを求め始めているもの、それが救い主というものなのです。そのようにしてあなた方は、あなた方自身を救い上げていこうとしているのです。それ以外にどのような方法があるのでしょうか?自分で自分を救いあがていく。そのこと以外に何の方法も、もはやないのです。すべてはその為の手段にしか過ぎません。私達はあなた方自身が、自分で自分を救い上げていくためのお手伝いをしているにしかすぎないのです。今までは、私達はまるで保護者のような顔をしていろいろ言ってまいりましたが、もうこれから先は、あなた方自身がすべて自分で判断していくことになるのです。
 自分にとってほんとうに大切なものが何であるかを選びとってきますのは、あなた方一人一人の責任でなさるべき時に、至りました。
 今まで私達は、そのあなた方の歩むべき道筋を、さまざまに灯をかかげ。、足もとを照らし、決して迷わないで下さいと導いてまいりましたが、これから先は、その灯をあなた方自身が掲げて歩いていく時になったのです。
 明るく大きい灯もありましょうし、まだ小さくかよわい灯もあるかもしれません。しかし、その一人一人が自分の個性のままにともした灯りを持ち、無数の光の流れとなって、ひとつの方向を目指して歩いていくのです。
 そうです。何も物理的な灯でなくても良いのです。あなた方一人一人が自分を灯にして光輝けば良いのです。その灯種子が、あなた方の言う、いわゆる救い主というものです。
 ああ、その無数の光の川の流れはどんなに素晴らしく、美しい光景でありますことか、光の帯となり、辿きつく果てにありましては、この宇宙をあまねく照り輝かすことの出来る、大きな大きな太陽となって行くことでしょう。その時こそは、もはやあなた方の言います闇の世界、闇の空間と言いますものは失くなってしまいましょう。
 そうです、あなた方は誰一人、灯りをともすことの出来ない者はおりません。あなた方がそのことに気付きさえすれば良いだけのことです。そのことこそが、スイッチを”ON”に入れたと言うことなのです。
 もはやこの世には、いえ、この地上的な世界には、肉体を持った救い主などと言いますものが現れることがありません。いえ、ここで少し、いえ、大いに言い方を変えてみましょう。今肉体を持っていますあなた方一人一人こそが、すべてあまさず、この地上に於いての救い主であると言うことです。
 いまこそ、”その時”がやってきたのです。それは、とても長い時の流れの中で、人々に大いに待ち望まれてきたものでした。
 そうです。あなた方の前に救い主は、”何時現れるかわからない”と言われ続けていたではありませんか?そうなのです。”その時”を決めるのは、あなた方自身でありました。あなた方の心の奥深くに在ります、神の意識そのものが現れるその時こそが、”その時”でありました。その時こそは、”今”そのものであることを、どうぞあなた方は知ってください。
 これ以上、私達はもはや何も言うことはありますまい。すべては今というこの時のためにこそ、この大蒼、宇宙の中に仕組まれてきたといえましょう。
 そうです。あなた方人々よ、もはや何も迷うことはありますまい。迷うべき暗闇は、あなた方一人一人のその光の前に、あとかたもなく消え去ってしまったのです。あなた方はその、今あるがままの姿で光り輝くことの出来る存在だったのです。その他にあるべき姿はありますまい。
 今までは、他の光によって導かれる存在でありました者が、今や自らの光に包まれる者となりました。この大蒼に浮ぶ星々でさえ、他の星の光によって光っていたものが、いつのまにか自らの光であたりを照らす光になるものは少ないのです。あなた方はそれらを越えた存在でありました。何故なら、もともとあなた方は、その光源より分かれた光そのものであったからなのです。もとの姿に戻ったにすぎません。
 ありがとう。人々よ。ありがとう、この大蒼、天の仕組よ。ありがとう、ありがとう、あなた方人々のまごころよ。ありがとう、長き時の流れよ。ありがとう、この長き時の流れなくば、人はみなこの光の源に辿りつかざりしものを……。
 そうです。このようにして、私達天の仕組の中では、あなた方はすべて、すでに救われてある者です。一人あますことなき光となりて……。
 ああ、なんと言う安らぎ、何という幸せ、なんという歓び、なんという偉大さよ。 征
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以上です。
 
肉体を持って再来してくる救い主(救世主)を待っておられる人々は、まだまだ多いかもしれません。
肉体を持つ救世主が現れるのではなく、一人一人が自分自身の救い主であるという言葉は、この2019年という時点においても、受け入れられる人は、全体の少数派であるかもしれません。
 
この「救い主」のお話は、約30年前(1988年11月)に、征さんが自動書記によって、受け取られたものです。
山田征さんからのメッセージ
その頃は、おとぎ話のように感じられたのでしょう。
 
私は、昨年(2018年)の6月に、仕事を完全にリタイアしてから、今日に至るまで、バシャール、サナンダ、大天使ミカエル、アドロニス、ブロッサムと光の銀河連合などから、インターネットを介して、チャネリングなどで、伝えられてくる情報に、接してきました。

結論からいうと、この山田征さんのご本に登場するいえす、まりあ、仏陀などの存在の言葉は、本物であり、決して、単なる物語りではないと、確信しています。

 そうです、そのような人々のほとんどは、やはり肉体的人格を持った者としての救い主を待っていると言えるのかもしれません。しかし、まことの救い主とはそのような者ではないと言いますことを、私達はこのノートの上で度々伝えてまいりました。
 あなた方が待っています救い主と言いますものは、もはやすでに、あなた方自身の中に存在しているのです。
 ほら、良くあなた方自身の心の中をのぞいてごらんなさい。何かほかほかとしてきませんか?何かが何かを求め始めていませんでしょうか?
 そうです。それがそうなのですよ。あなた方が何かを求め始めているもの、それが救い主というものなのです。そのようにしてあなた方は、あなた方自身を救い上げていこうとしているのです。それ以外にどのような方法があるのでしょうか?自分で自分を救いあがていく。そのこと以外に何の方法も、もはやないのです。
30年前の日本という時代にあっては、上のような考えは、なかなか受け入れられなかったと思えるのですが、現在(2019年)においては、アセンションの道を歩んでいる人々にとっては、当然のこととして、違和感なく受け入れられるのではないでしょうか。
ブロッサムさんと光の銀河連合さんが、ことある毎に、「私は光、私は愛、私は全て」と、唱えることの重要性を訴える理由は、自分自身が自分の「救い主」であることが真実であり、それを宣言することによって、自分を救うことができるからだと思えるのです。