2017年12月の月例祭で起きた、重要な出来事について、お話させてください。
「メモを取るな、心に刻め」は、お神の言葉でした。
そのお神のお言葉があった後、しばらく、お祈りが続いたのですが、もう一度、Iさんに、お神らしき言葉が、降りてきました。
「黒川、こっちに来い。」と、話しかけられました。
いかにも、その口調は、晃月師を思わせるものだったのですが、私は直感的にどこか違うと思いました。
私は、Iさんの近くまで、進みました。
そして、Iさんに降りてきた方(霊)に対して、「どちらさまですか?」と、問いかけたのです。
すると、Iさんに降りてきた霊は、うつ向いてしまいました。
「はあ、これは晃月師をかたる偽物だな。」と思いました。
本来であれば、「晃月や。」と答えがあるところですが、その霊は名乗らなかったからです。
邪や魔は、見破られると、弱いのです。
すると、横におられた方が、「晃月先生に、決まっとるやないか。」と叫びました。
もう一人の方が、「そうや。晃月先生や。お前とは、心が通わない。お前の祈りなど、神に届いていないわ。」と、挑発してきます。
この日の朝、このお祈り場所に来る前に、神棚のところで、晃月師がお立ちになっているように感じました。
そして、「今日は、何もしないで、行くだけでよい。」と、告げられたように感じたのです。
そのため。特別な月例祭であると思い、新幹線に乗ってきたのでした。
私は、言い争うことを止めました。
ただし、一つだけ、質問をしました。
「どうして、竹炭焼きが、神事なのですか?」
その質問をした理由ですが、竹炭焼きは、自分たちの都合で、日時を決めています。 お神の決めた時間に、執り行うのが神事なのですが、そうではないことを、「どうして神事と言えるのですか?」と問うたわけです。
お祈りの導師の方が、次のように、お答えされました。
「竹炭焼きは、お神が私たちが仲良くするために、与えてくれたもの。それが分からへんのは、あんただけや。」
もうこれ以上、話をしても時間の無駄で、お祈りに支障が出ると思い、「もうやめましょう。」といって、元の席に戻りました。
お祈りが終わると、いつもなら、お供え物を分け合って、皆で食べるのですが、その時はそのまま家に戻りました。
「はあ。これで、晃月師の言う通り、役割を果たせた。」と、安堵しました。
そのころ、そのお祈り場に、集まって来られる方々は、Iさんには、必ず、お神や晃月師などの神霊が、降りてくると信じておられました。
その1年前、2016年9月1日に、次のようなメッセージが、Iさんに降りてきていました。
「……(略)
こんなところまで来て 何で神様と人とがわからへんのや ひとの言ってる言葉か 神様が言ってる言葉かも わからへんのか え
……(略)
はあ みんなな 一人一人 自分の神様 ほんまに磨きなさいや それしかないよ な お願いします お願いします」
ここで、この神霊がおっしゃっていることは、自分の(心の中の)神様を、本当に磨かないと、人の言葉と、神の言葉を区別することが出来ないですよ。
だから、自分の心の中の神様を磨きなさいよ、ということでした。
おそらく、そのお祈りに集まって来られた方たちは、何の疑問を持つこともなく、大丈夫と思っておられたでしょう。
このころ、私は、自分自身の神仰に誤まりがあるのか、さもなくば、そのお祈りの会が道を外してしまうのか、見極めるのに必死でした。
どちらにころんでも、良くないことなので、非常に心配をしていました。
どちらにころんでも、良くないことなので、非常に心配をしていました。
なので、以前にも増して、真剣に日々の祈りを行いました。
逆説的ですが、そのことが、自分自身を救ったと、後になって思えます。
伝え聞くところによると、今(2019年)では、Iさんに、上からのお言葉が降りてくることが、無くなってしまったようです。
残念ながら、心配が悪い方に、当たってしまったようです。